恐らく私は昔から
『野心』みたいなものがあまりなくて
負けず嫌いで
出来ない自分が許せない
という場面は今でもよくありますが
それが『野心』のワードにハマるか
と言われるとちょっと違うかな
と自分では思っています
上へ上へ、というような欲求ってあまりなくて
ただただ『自分のなりたい自分』でありたくて
…というか、『自分の気が済む自分』の方が
イメージに近いかもしれません
自分が好きな自分でいたい欲求は強いけれど
誰かより上へ、とか
何かを得るためには
手段を選ばず死に物狂いで、とか
そこまで賭けて
何かを追いかけたことって
もしかしたら無いかもしれません
努力したいのも
努力出来ない自分は許せないからで
その努力の中に
何かを手にする手段の意も
ない訳では無いけれど
圧倒的に前者が主旨な気がします
基本いつも対自分で
誰かを妬ましく感じるとしたら
自分に対する劣等感の投影でしかないな
と思います
他人と争うくらいなら
みんなで優しい気持ちで穏やかでいたいし
それはいつも最優先事項なので
自分の行動が争いの種になるなら
やりたくないし
自分に向く感情であれば
誰かと争わずに済むじゃないですか
そういう風に考えると
元来、弱肉強食な社会には
不適応なんだろうな
とふと思ったんです
誰かから見たら
つまらない人間だろうとは思うけれど
私はこんな思考の自分も嫌いではないし
むしろ割といいじゃん
と思えているところもあったりします
そして、そこを基準に
快適であって欲しいから
みんな優しくいようよ
と他人に要求してしまいたくなるのかも
私が疲れてしまう理由の中には
他人の野心に当てられて
疲弊しているものも
実は少なくないのかもしれません
『野心』のある人は好きです
何かのために大切なものを賭けられる人は
自分に無いものを持っていて
すごく尊敬しています
ただ、その人が這い上がるためには
少なからずどこかで何かを踏みつけていて
それが自分に向く瞬間があった時に
上手く消化できなかったり
傷ついている人に勝手に感情移入して
疲れてしまうのだろうと思います
難しいですね
最近ぐるぐる考えていた結果
自分の新たな一面を捕まえられたので
文字に認めてみたという記事でした