誕生日に喜ばせたくて
こっそりケーキを用意する
子どもながらの精一杯のサプライズに
『コソコソされるのは嫌いだ』と怒られて
そういう感情のやり取りの難しさが
自閉症スペクトラムの人達との生活です
勝手にやっておいて
それを喜べって押し付けられるのは迷惑
と言われた時
当時の私は違和感は感じながらも
確かにそうかもしれない
私が押し付けがましかったんだ
と理解して「ごめんなさい」と謝りました
でも、今この歳になってみると
そのやり取りは
実は相手からの歩み寄りは一切なくて
自分の配慮と気遣いだけ求められている
偏った構図なのだと感じます
人間関係は人と人とで成り立っていて
お互いのバランスよってできているものだ
という感覚が根こそぎ抜け落ちている関係
他人であろうが、家族であろうが
同じように抱えていなくちゃいけなかったはずの
それは我が家には存在していなかったです
そんな偏った構図の中で育ってきた私は
周りの人の顔色を伺って
自分の行動を選ぶ人間になっていって
高校生の時保健の先生に言われるまで
周りの顔を見て
自分の行動の可否判断を煽っていることにすら
気が付いていませんでした
気がついてからも
自分で考えて、自分で動けるようになったのは
父から離れて生活して数年
連絡を全く取らなくなってからです
当時父がアスペルガーかも知れない
ということに家族の誰も気がついていない時
父の機嫌の波によって
家の中の空気が決まる毎日に皆すり減りながら
何が地雷なのか全く分からず
父の機嫌を損ねないことに必死な日々でした
アスペルガーかもしれないと思い
自閉症の特性を理解して
この伝わらなさは自分の所為だけじゃない
障害特性かもしれない、と気がついてから
それだけで
少なくとも私と母は随分救われました
暗にお前が察せよと
強要される空気の中で育ってきて
実際空気を読むとか、察するとか
そういう力は随分ついたと自負していますし
家族との生活の中で
どうしたら自閉症傾向のある人と
コミュニケーションが取りやすいか
共通認識で話がしやすいか
試行錯誤してきたことが
今自閉症スペクトラムの傾向のある方に
親しみを持って関わってもらえる機会が多いことに
繋がっているのかもしれないと思うと
日常生活の中で得た知識や
獲得してこられたことは
無駄じゃなかったなとはすごく感じていますが
今でも少しだけ
そういう人には気をピリッと張ってしまいます
付いている障害名が同じだから
皆同じわけでないのは
私の統合失調症も
人それぞれ個性との相性が多様なように
頭では理解していますが
体に染み付いた感覚と
植え付けてしまった先入観が
邪魔をしてくるような気分になります
人と関わるとき
ちゃんと自己理解しなくちゃなと思います
難しいんです、本当に
私はもう父とは一緒には暮らせないと思います
それは彼がアスペルガーであろうだけが理由では
勿論ないけれど
それでもやっぱり
あの難しさの中での生活は
私は出来たらもうしたくないな
慰めてあげたい幼い頃の私は沢山たくさんいます