自分と真剣に向き合っている人ほど
自分の価値を低く見積りがちで
あまり考えずに生きている人ほど
自己肯定感が高いのは意外とあるんじゃないか
という私の中の偏見があるのですが
…勿論、異論は認めます
受け取り方は人それぞれで構いません
健全に生きていく上で
「適当」というのは本当に必要な要素である
と常々感じていて
自分を甘やかさない人、良くも悪くも厳しい人は
会う度にアップグレードしていく人も多いけれど
自分の現在地点に対して
課しているハードルが高過ぎて
越えられないことに追い詰められてしまう人も
意外といるように感じます
例に漏れず私は自己破滅しがちな人間です
自分に厳しいって
響きはとても綺麗なのですが
とても綺麗事で収まることばかりではなくて
それで劣等感に押し潰される人を
私はメンタルヘルスの治療を受ける方の中で
沢山たくさん出会ってきました
生真面目な人が
一度世間の大きな流れからフェードアウトした時
突如溢れかえる『できない』に
押し潰されていく過程を見て
私の手持ちの言葉で表すのは難しいような
複雑な感情を覚えました
ひとつひとつのことを丁寧に考える人のことが
私はとても好きです
考える過程を粗末にしない人は
同じことから吸収する量がやっぱり多くて
その人の中の言葉からカラーが明確に見えるので
そういう人の話は厚くて、深いし
私もそういう人でありたいなと思います
でも、それによって
考え過ぎて行き詰まることも
必然的に増えるわけで
それら全てが超えられる悩みばかりではないし
それによって疲弊している姿も見えて
その隣で
ある種直感的に生きているように見える人の姿が
視界に入ると
何が正義で正解か
色々考えてしまいます
いや…結局は正義も正解も色々なのですが
私が素敵だと信じていることが
本当に素敵なばかりか悩む
という方が正しいかもしれない
そして地味に腹立たしいのは
何も考えていない(ように私から見える)人ほど
自分の「好きになれない」を真剣に悩んでいる人に
やたら失礼だったりすることで
いや自分のこと客観視出来ないのか…?
と、自分のことを棚上げして
人に対してマウントをとる場面や
やたら偉そうにする場面も見てきたし
自分もされてきました
そういう時
自己肯定感の有無が
社会の中の意味の無い権力序列で
理不尽に影響していることに腹が立ったりして
それこそ“正義”“正解”に迷子になります
考えること、考えないこと
どちらも適度に必要で
指標は人それぞれで
でも、それをお互いに尊重するのは
意外と難しくて
結局は自分の“素敵”を信じるしかないのだけれど
自分の正義を大切にすることが
上手く生きられることとはイコールでは
全くないみたい