人から相談をされたら
とりあえず話を聞くようにしています
その時に聞くことが出来なければ
この時なら聞けるからちょっとだけ待って欲しい
時間ができたら声をかけるね
と、できるだけ具体的に約束をします
話を聞いてもらうことで
救われる部分が大きいのは
自分がそうやって救われてきたから
私なりに理解できるので
そうして求められると
なかなか他人事とは思えなくて
とてもじゃないけれど突き放せないんです
でも、
本人の意識の有無に関わらず
都合よく使われている時があることも
本当は知っています
うつ病を抱えている人が
苦しかった時の話(いつも同じ内容)を
何十回と繰り返し話してるのを
否定せず聞いて
相手が受容しやすいように
私なりに言葉を選びながら
ぐちゃぐちゃになっている問題を
ひとつずつにバラして
「じゃあどうする?」と一緒に考えて
「これなら今日からでも出来そうじゃない?」
とひとつ案が見つかっても
「でも」といつの間にか冒頭の話へ戻って
…というのを
エンドレスに年単位でやり続けてると
さすがにしんどくなってしまう時があります
私がしているのは
素人が自分の経験からできることを
自分勝手な善意を重ねながら提供することだけで
逆に言うとそれしかできません
だけど、ここまでくると
相手からは
本来プロがお金を頂いてすることと
同じものを求められているんじゃないか?
と思えてしてしまう時もあります
本人は人に繰り返し話す中で
消化しようと足掻いてるし
毎回返事が「でも」で動けないのが
まだ受容出来ず苦しんでる表れなのも
私自身がそうだから理解出来るけれど…
素人の私にはできることが知れてるから
きちんとお金を払って
プロに聞いてもらっておいで、と
何度話を切り上げても
少しすれば話をしに来るので
結局1年以上
誰の為にもならない
カウンセリングのようなことをし続けています
昔母から
あんたは弱ってる人には居心地いいのよ
と言われたのを最近ふと思い出します
それはとても嬉しくて有難いことだけれど
そういう人は「相手に余裕があるか」を
考える余裕がないことが多くて
私自身が巻き込まれないように
線引きすることに必死な場面も多いです
自分で言うのもあれですが
昔から発達や精神の障害を抱える方からは
好かれることが多くて…
自分自身の立場も含め生育環境上
それらがその人の属性のひとつと以上は
思っていませんが
だからこそ人として
私にも最低限の敬意を
払って欲しくなる時はあります
私はお母さんではないし
便利屋さんでも、カウンセラーでもありません
相手の思い通りになんて動けないし
私には私の考えがあって
自分とは違う考え方なんだと理解することで
否定をする選択は避けられても
全てを肯定することは無理です
相手の悩みに責任も取れるはずもありません
お金を頂くプロではないのだから
そこまで言ったらただの搾取です
あなたのための私じゃなくて
私のための私なのに
そこをなかなか理解してもらえず
相手の内側に置かれてしまうことが多くて
しんどさ余って腹が立ってしまうことも
実はちょこちょこあります