私自身が
どんなに辛いと感じていたって
どんなに苦しくてたまらなく思えたって
やり切れない思いに押し潰されそうだって
結局は“普通”に生きることを求められる
“普通”そのものじゃなくたって
できる限りの“普通”を求められるんだ
多様性が綺麗な響きで謳われる世の中で
果たしてどれだけの“多様性”が
許されているのだろう、とつくづく思います
結局は型へはまるよう
誘導されているような気がしてしまう…
だからこそ
生きやすい“普通”に
なりたくてたまらなくなってしまうんだ
“普通”が諦め切れないんだ
求められ続けるんだもの
自分で言うのもあれだけれど…
いつか自分で生きていけるようになる自信は
正直あります
時間は世で一般的な流れとされるものよりは
ずっとかかるかもしれませんが
諦めずに頑張れる私であると信じています
特別根拠はないけどね

ただ、その時間のギャップの中で
何度虚しくなればいいだろう
何度虚しくなる言葉をかけられればいい?
りんごさん、いくつ?
あ、そうなんだ
今何してるの?
この会話が大嫌いなの
世間話の中でよくあるこれで
正直なことを正直に伝えた時の
ちょっとびっくりした顔や
一瞬言葉に詰まるあの感じで
毎度苦笑いしてしまう
私は私だし
そう思うしかないけれど
そう思い続けられるほど
私はまだ強くなれません
目の前にあるできることを頑張る気持ちは
いつだってあるけれど
ちょっとしたことで
諦めきれない“普通”が顔を出す
やってるよ
出来ることなら、思いつく限りを精一杯
サボってるつもりは1ミリもない
だけど、だから“普通”を諦めて
開き直れるかはまた別問題だ
何回開き直ったって
日常の中に散りばめられた
劣等感の欠片を踏んでしまえば
やっぱり切なくなる
自分で選んだ道なら
まだ諦めがつくかもしれない
仕方ないと思えるかもしれないけれど
ほんの少しも望まなかったこの道で
劣等感の欠片をないものとして
踏み潰しながら進めるほど
私はまだ強くなれない