以前別の記事で

私は障害によって
自分の幸せを諦めるつもりはないので
理解を示してもらえなくても
自分にとって譲れないことだったら
何度だって伝えますが
逆に言えば
いつも何をするにも
そうなることを覚悟しています

ということを書いたことがありますが

それでも私の存在によって
私にとって大切な人が
大切にしたい何かを
諦めなければいけないことになったら
離れることを選択する思いも
いつもどこかに置いてあります


それは要因が障害であることに
限ったことではありません

私という“存在”全てを含めてです


だけどその選択は
相手のためなんかじゃなくて
紛れもなく私自身のためです

自分が誰かの足枷になっている事実に
耐えきれる自信がないから


必ずそうする、なんてつもりはありません

どんな人間関係においても
感情を持った別の人間同士が関わるのだから
何も諦めずにいられることがないのは
私なりに理解しているつもりです

何かを選ぶということは
何かを諦めることだというのは
私も日々感じているからです


だけど、
例えばそれが
相手の人生に関わる大きな何かである時
ずっと夢みていたことである時
或いは犠牲にするものが大きくなり過ぎた時

私はきっとそうすることを選択します


誰かにとって大切なものを
歪めながら一緒にいることは
少なくとも今の私にとっては
苦しくて耐え難いことだから

私だけが苦しければいい
なんて思っているんじゃなくて
その方が私が苦しくないから

誰のためでもなく
結局は私自身のためなんです

身勝手なやつでしょう?


でも
行き過ぎた我慢をしながら一緒にいる関係が
上手くいかないことも私は知っているから
私はそれが妥当だと判断すれば
そうする気持ちはいつもあるんです


つくづく
中途半端に生きているなぁと思います

何かを手にしている人は
そのためにたくさんの何かを捨ててきていて
全部は抱えきれないように
世の中はできているみたいです