先日男友達と丸一日遊びに出てきました

遊びに行く先を考えている時に
水族館と遊園地が挙がっていて
『この気温で遊園地は溶けるね?』
と一応水族館に決めて出かけたのですが
結果午前水族館、午後遊園地のはしごになり
見事に溶けて来ました(笑)

でも本当に本当に楽しかったです


その子とは割と仲良しな方で
最近でも比較的頻繁に連絡を取っているし
時々通話をしたりもするので
話す機会は多い方だと思いますが

直接会うと…
端末越しにやり取りするのとは
当たり前に感覚が違うので
なかなか勝手が取り戻せません


私は私なりに
彼に最低限の気は遣って
接したつもりでしたが

それでも彼に気を配ってもらったことの方が
実感として圧倒的に割合が傾いていて

私はとても楽しかったけれど
彼はちゃんと楽しかったかな、とか
いつもの如く考えてしまうんです


家族以外の人に
無条件に気配りをしてもらえていると
改めて感じる機会が
最近なかなかなかったので
“気配り”と“気遣い”の違いが
イマイチ分からなくなってしまっていて

双方の意味自体には
きっと大きな違いはないのでしょうが
なんていうか、うまく言えないけれど…
『優しくしてあげたい』と
『こうしておいた方がいいかな』の
感覚の違いというか

気を配ってくれているのか
気を遣ってくれているのか
区別がつかなくて怖いんです

相手に疑ってかかるつもりはないのですが
それをただ“優しさ”として
受け取ってしまうことが
私自身が怖くてたまらなくて
結果疑う形になってしまう


期待しなければ傷つかなくて済む
なんて、並んでいる言葉だけ見れば
おかしな話でしかないと分かっています

期待したって、期待してなくたって
傷つくものは傷つくんだし
相手の優しさを疑うだなんて
自分勝手で失礼極まりない…と
理屈では分かっているんです

だけど、自分が可愛い私は
そうであって欲しくないから
そうであるかもしれないと心の準備をして
最初から受け身をとる姿勢でいるんです

本当に怖い時って
感情を通り越して
“本能”のようなもので反応してしまうんだな
なんて、他人事のように思っている
自分までいます


記事の冒頭で

私は私なりに
彼に最低限の気は遣って接したつもりだ
と書きましたが

私自身がしているのは結局
“気遣い”でしかないんです

もちろん相手に優しさを傾けたい
という純粋な気持ちもありますが
それと同時に『こうした方が』も
どこかに必ず存在してしまう私だから
私の思う“気配り”にはなりきれない


私おかしいですね
こういうところが嫌いなんだよな


どうしたら抜け出せるだろう
どうしたら許容出来るようになるだろう

どうしたら、どうしたら

またぐるぐる考えることが始まります