今日、朝起きたら、母からメールが入っていた。

「僕のじいちゃんが亡くなって、もう親族だけで

葬儀も済ませた」という内容だった。


僕の仕事は「放送作家」という、普通のサラリーマンのように

簡単に休める仕事ではない。風邪をひいても、身内に不幸が

あったとしても、僕の電話が鳴り止むことはなく、僕に悲しみに

暮れている時間を与えてくれない。次から次へと仕事を頼まれ、

時間はあっという間に過ぎていくのだ。


僕は下積みが長かったこともあり、今はけっして売れて

いないわけではない。ここ最近は、寝る時間もないぐらいの

忙しさが続いていて、体調を崩したこともあって、何より優先して

書いてきたブログさえ更新できない日が続いていた。


そんな僕の状況を知ってか、母は、一通りのことがすべて

終わってから僕に連絡をくれた。ただでも忙しいのに、

「葬儀に出席しろ」なんてメールをしたら大変なことになると

考えたのだろう。僕がじいちゃんの訃報を知ったのは、

通夜や葬儀がすべて終わった後だった。


僕はここ数年、じいちゃんに会っていなかった。

会いたいとは思っていたが、なかなか時間もなかったし、

たまに時間ができても、映画を観たり、イベントに出かけたり、

なかなかじいちゃんに会う時間を作ろうとしてこなかった。


じいちゃんだって、いつかは死ぬ。

なのに、僕はじいちゃんに、ほとんど何もできなかった。

一緒に旅行するとか、結婚した姿を見せるとか、

曾孫の顔を見せるとか、そういうことを何もできずに、

そのままじいちゃんは亡くなったんだ。


あまりにも仕事が忙しくて、それらをこなしているだけで

時間が過ぎていくから、じいちゃんが亡くなったと

聞かされても、ほとんど実感が湧かないのだが、

今日は、じいちゃんとの思い出を、このブログで

ちょっとだけ語ってみようと思う。いつものような

くだらない話ではないかもしれないけれど、

お時間のある方は、ぜひ付き合っていただきたい。


亡くなったじいちゃんは、母方のじいちゃんだった。

父方のじいちゃんは、僕がかなり幼い時に亡くなったので、

ある日、家にやってきて、ミニカーをくれたことぐらいしか

思い出がないのだが、母方のじいちゃんには、

たくさんの思い出が残っている。


じいちゃんは、かなり腕のいい左官職人だった。

大正時代の生まれだから、実は、戦争も経験している。

赤紙が来て、戦争に連れて行かれ、何人もの仲間が

亡くなったらしいが、じいちゃんは運良く生き延びたらしい。

そうして、戦争から帰ってきて、僕の母が生まれた。

もし、戦争で亡くなっていたら、僕は今、いなかった。


じいちゃんは、その昔、めちゃめちゃモテたらしい。

いつだったか、若い頃の写真を見せてもらったことがあるが、

現代の僕が見ても、ハンサムなのが一目で理解できるほど

凛々しくて、整った顔をしていた。


しかも、特技はビリヤードとハーモニカ。

時代が時代なだけに、こんなハイカラな特技を持った

イケメンは、女性が放っておかなかった。それだけに昔は

ばあちゃんもずいぶんと苦労としたらしい。


ちなみに、じいちゃんと結婚した「ばあちゃん」もまた

美人だった。二人はお見合いで結婚したらしいのだが、

貴族のお嬢さんだったから、日本舞踊、三味線、華道、

そして茶道を学び、いずれも師範にまでなっていた。

そういえば、僕が小学生の頃は、ばあちゃん家に

遊びに行くと、おばあちゃんがよく日本舞踊を教えていた。

僕はそれを意味もわからず眺めながら、そのうち眠くなり、

そのまま部屋の隅っこで眠ることがよくあった。


戦後の左官職人は、めちゃめちゃ儲かったらしい。

戦後復興のために、作るべきものはたくさんあるし、

特に腕のいい僕のじいちゃんは、引っ張りだこだった。

だから、母が子供の頃は、まだ一家に一台テレビがない

時代なのに、家にはテレビがあって、近所の人たちが

みんな見にきたのだという。


しかし、そんな羽振りのいい生活も長く続かなかったという。

ありがちな話だが、気前のいい男前のじいちゃんは、

誰かの保証人になったらしいのだが、あっさりと夜逃げされ、

その借金を全部背負うことになってしまったのだという。

超金持ちの家から、ド貧乏を味わうことになったというのだ。


とはいえ、僕が生まれる頃には、普通の家だった。

どうやって借金を返したのかを聞いたことはないが、

僕が物心ついた時には、特別にお金持ちではないけど、

苦しい生活をしているようにも見えなかった。


僕は子供のころ、千葉県柏市に住んでいた。

ばあちゃん家は、千葉県佐倉市。僕が小学生の頃は、

まだ家に車がなかったから、夏休みに帰省する時には、

東武線で船橋まで行き、船橋では乗り換えるために

いくつも並ぶパチンコ屋の前を歩いて、京成線に乗った。

京成佐倉駅に着いたら、バスかタクシーで移動した。


ばあちゃん家は、古くて小さな一軒家で、

玄関を開けると、いつも古い家のニオイがした。

僕はそのニオイを嗅ぐと、おばあちゃん家に来たんだと

実感するのだ。玄関を開けると、廊下の先にあるのは、

なぜか風呂で、右には応接間、左には小さな茶室と

仏壇があった。


僕は、ばあちゃん家に着くと、じいちゃんとばあちゃんに

挨拶を済ませ、まず応接間に行くのが習慣だった。

弟は従兄弟たちと遊んでいたが、僕は従兄弟たちと

あまり馴染めなかったから、一人で広い応接間にいて、

大きなテレビをつけて、なんとなくゴロゴロしていたのだ。

そんなことをしていると、そのうち、一人だけ遊びに行かない

僕の姿を見つけたじいちゃんが、僕に話しかけてくるのだった。