いまなぜ「物語」なのか | チエでつながる, ワザでつながる、ココロでつながる、価値を生みだす           ~ 物語思考が世界をかえる

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この世に生まれて間もなく、人は「ものがたり」と出会い、そこで広い世界とのつながりを作ります。このblogでは、「ものがたり」と共にある人の可能性を探求していきます。

 

昨今の会社とか学校とか役所とか、そういう場で

起きていることを見ると、

 

まさに「物語」が、必要になってきていると感じます。

 

契約とかルールとか、合理性とか費用対効果とか、

そういう理屈から離れた価値観に目を向けないと、

もうダメなんじゃないか、と沢山の人が感じ始めている。

 

「物語」が求められる背景には、そういう変化があるのだろうと

思います。

 

『日本霊異記』という平安時代に書かれた、物語集があります。

 

薬師寺のお坊さんが、仏の教えを広げるために書いた本

だそうですが、実は日本の各地を回って、それぞれの土地に

伝承されていた民間説話をまとめたものとされています。

 

例えばこんな話。

 

ある夜、男が家に帰ると妻の姿が見えません。妻は仏を信じない夫の

罪を許してもらおうと寺へ懺悔しに行っていました。夫は寺に乗り込み、

妻を引きずりだします。僧がとりなすと、夫は僧を口汚くののしりました。

その晩、夫は妻を抱こうとします。
しかし妻は、今は願掛けの最中だから身を清らかにしておかなければならない

のだと夫を拒絶します。夫は嫌がる妻を無理矢理に犯してしまいました。
事後、眠気を催した夫のまわりに、どこからともなく蟻が集まりだしました。

その数は10匹、100匹、数100匹と増してゆき、夫の陽根(陰部)を

目指してたかりはじめ、そしていっせいに噛みつきだしました。
あまりの痛さに跳ね起きた夫の陽根は見るも無残に腫れあがって

いました。蟻はいくら払っても食いついて離れません、ほどなく

して、夫はその傷がもとで死んでしまいました。

和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com) よりの引用)

 

正直なところ、現代の私たちが読んでも、それほど面白みも

感じられない話ですが、当時はそれなりにインパクトが

あったのでしょう。

 

重要な点は、仏を信じないような人間(法=世界の秩序を大事に

しない人間)は、大変な目にあうぞ、と、そういう世界観が

社会に広く受けいれられていたらしいことです。

 

そういう発想は、何も平安時代まで遡るまでもなく、

江戸時代や明治辺りまででも、結構民衆の中には強かったと

言われています。

 

それが、20世紀になった頃から、殆んど無くなっちゃった。

直近の約1世紀は、「物語」がないがしろにされてきた時代です。

 

日本人は無宗教の人が8割などと言われますが、これは明治に

入ってからのことです。 多分偶然ではなく「物語」がないがしろに

されてきた流れとも繋がっています。

 

それより前は、超自然の力とか、人間の知りえない世界の存在とかは、

人々が自然に前提に置いていたものでした。

 

明治以降近代化が進む中で、科学が万能と捉えられて、実証主義が

世の中を支配しました。 どんなこともロジカルに説明が可能だし、

様々な問題は、科学の発達で必ず解決できるはず、と人々が

信じるようになりました。

 

でも、これが思い込みであることは、今の時代なら中学生くらいでも

気づいていることでしょう。

 

世の中には説明がつかないことが一杯ある。

スパッと割り切れるようなことは、むしろほとんどない、と

みんな、段々そう考えるようになってきました。

 

これが過去20年くらいで、起きてきているように感じます。

 

だから、「物語」はいま必要、というより、

人間にとってずっと必要だったものが、復権してきただけのこと。 

 

暫く“忘れていた”ので、そろそろ、元の姿に戻ろう、

という事なんだと思います。

 

このことは何も、科学や実証主義を否定せよ、というのではなく、

元々「物語」には、科学も実証も全部含まれているのだと考える

べきでしょう。

 

合理もあれば、非合理もある。人間の世界とは、そういうものだ

と、社会が気づき始めているのだと、思います。