中学の頃、国語の授業のスタートは読書から始まった。


読書といっても、先生が本から手書きで書き写した茶色いわら半紙1枚…それを先生自身が読み上げるのだ。


わずか5分くらいのこの時間…自由が許された。聞いてなくてもいいし寝てもいい。ただ、しゃべること以外は。


私はこの時間が好きだった。自分では読まない本を知ることが出来たし、何より、一字一字時間をかけて書き写してくれたペラペラな紙に、本への、そして私たちへの愛情を感じた(聞いてなくてもいい、というところに押し付けがましさを感じなかった)。


深く印象に残りつつも、題名が思い出せなかった作品。今の時代は便利だ、キーワードを検索すれば出てくるのだから。


“戦時 葉書 疎開 娘 丸”

向田邦子『字のない葉書』


戦時中、疎開する幼い娘に葉書を渡す父親。字の書けない娘のために宛先や宛名を書いて葉書の束を渡し「元気なら丸を書きなさい」。
疎開した初日の葉書には、はみ出んばかりの大きな○が描かれている。歓迎を受けてご馳走を食べられたからだ。
しかし次第に○は小さくか細くなり、やがて×になり、最後は葉書が届かなくなる…。


覚えていたのはここまで。

娘はどうなったのか、どうしても思い出せなかった。それが息苦しかった。

今再び読んでみて、家族(先述の娘は末娘で、他にも姉妹がいる)の深い愛情と、戦争に翻弄された人々の姿に、胸が痛む。


忘れてはいけないもの。
二度と起こすことのないように。


当時、先生はいくつであっただろうか。よく私たちに「(感じ方の)世代の違いを寂しく感じる」というようなことをつぶやいていた。自分の胸に響くものが私たちには響かない、と(私は先生の選ぶ本や話してくれることがとても好きだったけれど)。


先生は、今も教師をしているのだろうか。更に、更に世代を隔てた生徒を前に、一体どんな表情で弁を振るうのだろうか。



私にとって、あの“読書時間”は、とても大切な時間でした。今でも胸に刻まれています。ありがとう、先生。