人間はどうあっても自制の効かせられない場面がある。

何かしらの欲が立った時、普段からは窺いしれないほどに昂ぶるものだ。それは仕方ない。

 

それでも、一線を超えるかどうかについて今一度検討は必要になる。

一線を超えるに値する欲を、その瞬間に叶えるべきなのか。

 

 

超えたのならば、それまで積み上げてきたものが大きく変わるという事は常に頭の片隅にとどめておかねばならない。

それもせず、取り返しの付かないことだと後悔するのは、あまりにも幼稚だと言わざるを得ない。

ここ数日、かつてのSNSでの問題と同じ事態が発生しているのが目につく。

残念ながら当事者には然るべき対処は必要だ。そこに関しては司法によるもの故に、多くは語る必要もないだろう。

その一方で過剰なまでの当事者外からの制裁には痛ましさを覚える。法による結末を待つ前に、石礫が際限なく投げつけられる光景は見ていられない。

陽のあたる場所はおろか、スポットライトの照る場所まで無理矢理引きずり出すことが正しいやり方と呼べるのだろうか。

某不動産会社による勤務時間の改ざん及び見せしめの話を聞き、ある外資系メーカーでの内部事情を思い出す。

 

具体的な期日も支持もなく、全てわかっているという勝手な前提で指示(明らかにそれに値するものではないのだが、ここでは便宜上こう記載する)を出す社員達のおかげで立て続けに若手が抜けていったという話だ。

 

本来なら事件につながる前に対処するべきなのだが、どうあっても問題発生から調査の上でずさんな体制が明らかになる、という流れは変わっていない。

 

告発する人間を守る何かが必要なのだが、それが実現するまでどれだけの事件が発生すれば良いのだろうか。

或いは当事者だけでは変わらないのかもしれない。

 

上記の会社ですら、さも当然の如く抜けていった若手に「戻ってくる」と信じて疑わなかった。正直ゾッとする話である。

中には彼ら自身が一方的に無能と決めつけ追い出した人間もいた。それでも彼らは自分たちのやり方を変えられないでいる。

 

自分たちのこれまでを否定出来ないところまで来てしまったのだろう。

そういう人達の集まるところで、今日も仕事がなされていくのである。

 

 

 

「弊社は救命に関わる用品を開発し、お客様の……」

とうたう企業は多い。

 

しかし、その一方で、その中で働く者の人命を軽んじている実情が無視出来ない。

彼らが欲しいものが社員でなく、ただの労働力、工数に足りうる人区。つまり数字でしか見ておらず、その中でどれだけ駄目になったとしても予備の部品を補充するかのごとく発注するだけだ。

 

顧客でもある、という事を考えなければ寄り付くことも無くなる。

安全神話が単なる偏ったマンパワーに頼りっきりだった事が明らかになってく事は、本来あるべき安全神話というものがはっきりしていく上では喜ばしい事なのだろう。

 

そこまで、どれだけ蜃気楼に呑まれていくかは別問題だが。

 

 

 

昨今のいくらかの騒動を通じて、やはり日本を叩きたくて叩きたくて、どうしようもない人はいるのだと改めて思い知らされた

どこからくるかは別として、代替しようのない憎悪が彼らを突き動かしているのだろう

 

 

彼らにとってすれば、日々の生活を良くしたい、とか大きく出て自国を憂いている、とかそういう考えは一切ないのだ。

ただ、憎いからどうにかして攻撃する口実を、大義名分を持ち出したいだけ。

 

初めから議論の成立する間では無い。

 

この手の人と直接対話しなくて済む、という意味では平和と言える。