正解も不正解もあてにせず。誰からそれを指摘される事も願わず。

善悪の境も曖昧なまま自分の中で巡るものを吐き出す。

 

そういう事は何度でも繰り返すべきなのだろう。例えそれが病的な程であっても。

 

それは、一つの岩を削り出していって形を作っていく工程に似ている。

目指すべきものは、自分がいざ考えていた事が何かを見つけるという事。

 

時にはむき出しのままの鋭い破片を落とす事もある。削ぎ落としていったっけか、鋭い破片がむき出しになる事もあるだろう。

だが、誰かにそれを見てもらう必要も意義もない。何故なら相手のいない対話だからだ。

 

おそるることなかれ。

 

 

やりたいことが見つからなければ、とりあえず金を稼ごう。とは某有名人が言った事だが、まさにその通りだ。

嫌々続けている事でも、金を稼ぐ事であるならそれはやりたいこと、つまり生きがいを続ける為に必要なリソースを獲得することになる。

 

 

仕事は、その最もたる例だろう。

リソースを稼ぐ為に不健康であってはならない。より少ない労力で、より大きなリソースを得る為に時には既に獲得したリソースを割り振らねばならない事もあるかもしれない。

 

それでも良い、と考えている。それは福利と同じようなものだ。

 

だからこそ忘れてはならない。

金銭的に豊かになるという事は、同時にリソースを獲得する手段もまた本人にとって健全で無ければならないという事を。

 

 

世の中どうつながっているか分からないものだ。予想だにしないところでつながりを見つける事は少なくない。

それは良い方向にも、悪い方向にも転がる。

 

良い方向ならばそのままで良いのだろう。しかし、悪い方向、つまり「できる事なら避けたい」というケースの場合は中々難儀なことになる。

 

これは穢にも似ている。ある地点まで薄まればつながりが途絶えていると割り切る事さえ、時には必要だ。

世の中に貢献している、とうたう会社のあまりにも杜撰な体制を知っていれば、そこに紐づくものを禁忌する気持ちが湧き出る事は自然な事だ。

 

しかし、不条理にもそこから輩出されるもの自体は無くてはならないもの(例え代替品があったとしても、シェア的にもエンドユーザー的にも替えの効きづらいような)という事態もある。

 

トラウマ、と言っても良いだろう。残念ながら、ある日突然その企業が消滅するなどという事はまずありえない。(0%ではないが、それが起こる前にもっと重大な事態が起こるだろう)

 

どうしても拭いきれぬようならば、メンタル面での対処も必要になる。そういった損害を、誰も補填してはくれないのだが。

かつては、こういったヘドロのような感覚を呪いとして発現していたのだろう。

 

不条理なものに対しては不条理をぶつける。ともすれば、合理的な判断をかつての人々は下してきていたのかもしれない。

 

 

縁が切れる事をそこまで恐れるのは違うのではないか。

常日頃から疲れる縁は、縁と呼べないのではないか。

 

時として波が荒れるのは仕方ない。荒れている波を泳ごうとしなれば良い。泳ぎたさがあるのなら、波がおさまるまで待つ事が大切なのだ。

 

 

どうしても縁を大切にしたいと思うのなら、継続しない事がかえって好転することもある、という事を考えておくべきなのかもしれない。

 

 

寡黙、無口、といえば性格だと一口にまとまってしまうこともあるだろう。

しかし、必要な事や伝える方が良しとする事まで性格だと一括りにされてはたまったものではない。

 

まるで言わなくてもわかるだろう、わかる努力はそちらだ、という態度は横柄でしかない。

困ったことに、それを指摘したとしても当人が受け入れるかどうかは別だ。

そして、多くの場合良い方向に転換する事は稀である。

 

そうなると、このような人間とは距離を置くように動く、というのが最も効果がある。

リソースの分け方の問題、と言えるだろう。