鹿の浦、この地は古来より哀しい逸話が伝わる
国司に任官され先に任地へ赴いた父を追い、安寿と厨子王母子は徒歩でその地へ向かっていた
だが、直江津で人買いに騙され、母は佐渡国へ、安寿と厨子王は播磨国(現在の兵庫県)へと送られた
母は鹿の浦の地で安寿と厨子王を思い続けたが、長年のつらい奴隷労働が祟り失明してしまった
一方で安寿と厨子王も母を思い、成長した厨子王は父と同じように国司となり、二人は佐渡国へ母を探す旅に出た
安寿は長くつらい旅程を終え、ここ鹿の浦の地で母と再会する
母と抱き合った安寿は安堵と嬉しさでその場で息絶えてしまう
母は大いに悲しみ、安寿を鹿の浦に埋葬した。
やがて厨子王も到着し、安寿を弔い、母を鹿の浦から連れ出して任地で幸せに暮らした
ちなみに達者の目洗い地蔵の水で母の目を洗ったところ、母の目が再び見えるようになったという話もある。
安寿が亡くなった後この地の川には毒が流れ、やがて誰も住まなくなった―
というのが佐渡に伝わる山椒大夫の逸話である





どっちがいいか、である。
古代・中世のように、割と自由で取り締まりも緩い代わりに、身分差があり下層民は自力救済すら許されない
また現代のように、規則やルール・マナーにうるさく官僚機構が整備され、それらを守ってさえいれば官警が守ってくれる
前者では安寿・厨子王のような悲劇が往々として起こる
そもそも人権という概念は西欧社会から輸入されたもので、彼らが自らの血で以て封建領主から勝ち取ったものである
戦争に負けるまで、日本には本当の意味で人権という概念は膾炙されなかった
また、官僚機構というものは戦争の必要から整備された面が大きい
ルイ14世による自然国境説に基づく数々の干渉戦争を行うには、軍事費の徴発と施行、戦争自体の遂行において官僚機構の整備と発展が不可欠だった
個人的にだが、私は前近代的な日本は好きではない
押し付けではあったが、西洋の価値観が日本に根付いたことは本当によかったと思っている
賛否はあるだろうが、少なくとも人身売買が公に禁止になったという観点においては。