呼吸をするたびに、愛は深まっていく。 | こがみのり@茶人×バリスタBLOG

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大阪府枚方市にある「茶肆ゆにわ」「シロフクコーヒー」店長の
こがみのりの日常ブログ

こんにちは

茶人×バリスタのこがみのりです(=゚ω゚)ノ

 

 

先日のnoteの記事がご好評をいただきましたので

こちらにも転載させていただきますm(__)m

 

 

毎日、毎朝、禅語を一つ選んで

一日の道しるべにするという遊びをしているのですが

ある日の禅語の解説です(=゚ω゚)ノ

 

 

「徳」と言い
「道」と言い
「仁」と呼び
「義」と言い
「礼」と言っているのは


みな、同じものなのです


ただ、その置かれる場所によって呼び名が変わり
用い方も異なってくるのですが
本質は全く同じなのです


義とは人の心の内を貫いている
正しくまっすぐなものを本質としているので


この道理の感覚を定規として
そこから生まれてくるものこそ「義」なのです


これは、宗教も同じかなと思うのです
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教
神道、儒教、その他もろもろ・・・


色んな神様が乱立しているようにも見えるけど
でも、その根本は同じことだと思う

 

どの道を通って、どの順番でそこへたどり着くか?


一神教と多神教は呼吸の関係だと思う
息を吸うから、吐くことができる
息を吐くから、吸う事ができる


どちらか一方では、人間は生きていけない


多神教と一神教も、それは同じこと
全ての存在に感謝をささげることは、確かに大事だ
でも、その、感謝や愛を深めていくならば
捧げる対象を一人にした方が、良いだろう


たった一人の対象に、感謝し、深く愛することができたなら
その隣にいる人にも、同じだけの愛を注げば良い

 

 

「 汝の隣人を愛せよ 」


広く愛し、それを絞っていくのと
ひとりを愛し、それを広げていくのは
まるで呼吸のような関係


絞っては広げ
広げては絞る


その過程で、愛は一神教の神として現れたり
多神教の神として現れたりする


徳、道、仁、義、礼も、それと同じ
本質がどのように顕現したかで、呼び名が変わるのだ

 

 

 

 

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こがみのりでした!!