また、婚活女子とか、その傾向とかを考えてしまう | 巡礼者のブログ

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将棋の藤井さんの王位防衛と、永世王位が決まる。あれからもう五年、というか、その五年間の自分に絶望したりする。

 

婚活女子の方で、五年婚活、という様な話は、動画や記事で見ているのだが、五年は五年だ。その分年取るし、なかなか人間というのは、自然に若返るという話はない。あるいは、五年分の人徳なり、人としての魅力がどうなるのか?というのは、その人の過ごし方による。長く生きたから、その分自然に魅力が増すということではないのだ。

 

自分の五年、というのも考えるに、自分で自分に絶望する。もちろん、この五年というのは、本当にあったのかどうかも分からない病の流行?というのもあっての五年なのだが。それをどうなのか?と思う向きは、自分で調べるか、人に聞いて、キーワードから調べる必要がある。ここではそのキーワードを書いたりすることはしない。自分はそれを幾つか知っている一人として、その様に言う。

 

さて、このところ〜昨日も触れていた話ではあるのだが、婚活女子の話である。女子に限った話ではないのだが、どうも、AIに勧められる記事、あるいは、男性の記事も見ようとはしているのだが、男性の婚活、婚活男子についての記事は、圧倒的に少ない。検索だからそうなのかも知れないが、それ以上の現場のことを調べる根性もない。

 

婚活女子は、男性の収入を基準に相手を探そうとしているらしい?のだが、その場合、年収1000万、とか、妥協して800万、とか、そんな文字と音声が踊っている。その様に望む向きは、それはそうであるのかも知れないが、そういう基準を立てること自体が、どうも不幸に繋がっているらしい、という風にしか見えないのだ。最低に言っても、結婚相談所のプロの方々の発言からするとそうである。

 

別に男の人と女の人と、どう違うのか?という話ではなくて、結婚相談所のプロからすると、それは無理だから、条件を変えて下さいと仰る方が普通の様である。つまり、年収という意味では、そういう現実はまず、ほぼあり得ないから、別の条件で婚活して下さい、というのが、婚活のプロの意見なのだそうだ。

 

だが、自分としては、その話も、?、と感じる。つまり、お金なぞなど、そもそも危ういので、果たして、年収幾らの人を希望、と宣言したとしても、あんまり〜少なくとも今の世の中で、生き残るのに意味があるのか?というのが、自分の感覚である。

 

年収が幾らあっても、近い将来に日本国がデフォルトする、という話は、ずっと前からある。90年代から、そういう話はあって、いよいよそうなる、という話はあるのである。そんな世の中なのに、お金さんを基準に物事を判断する、というのは、どこまで現実的な見方なのか?というのは、甚だ疑問である。

 

自分の場合は、近所の農家さんとかにあたって、手伝いでいいから、1日働いたら、大根一本とか、キャベツ一つとか、考えているのだが、何年も続くこの夏の気温からすると、手伝いだろうが、ボランティアであろうが、自分がそれで倒れて、かえってご迷惑になる、としか思えない。実際、自分も、去年、ちょっと歩いただけなのに、ほぼ熱中症の症状が出たし、今年もそうであった。となると、実質としての食べ物という着眼はともかく、ご迷惑になるなら、そこに関わる訳にいかない。責任問題である。

 

年収1000万あれば、大根さんとか、キャベツさんは買えるだろう、という人もいるかも知れないが、そういう結婚条件を設定する婚活女子の人は、自分がネット上で見る限りでは、エステに行く費用のため、とか、おしゃれをするため、とか、ランチに行くため、と言っている?あるいは、そのために、将来の旦那さんに、そのお金を出させたい、という人が大半なのであって、今後の日本国、とか、今後の世界が、と言って、婚活をしている婚活女子という例は、今のところ遭遇していないのである。

 

そんな訳で、エステとか、ランチとか、それどころではない、という現実を知っていれば、年収1000万のパートナー、とか、そんな希望を、少なくとも結婚相談所に伝えたりはしない筈?なのである。少なくとも、ある程度の知性と、ある程度の情報がある女の人なら、そんな条件を、結婚相談所や、パートナーに伝える筈がない、と、自分なりには思うのである。

 

それ以上に、ある程度出回っている情報で、何年にこういうこたが起こる可能性が高い、などという、それなりに裏付けがある情報であっても、多分、年収1000万の「若い男性」を求める、などというのは、単に年収とか、金額とかの問題ではなく、「現実の日本、現実の世界、現実の地球、現実の宇宙」について疎い女性が、そんな希望を出しているのだろう、ということで、そういう婚活女子系の人は、お金さんとか、金額に「洗脳されている」のだろう、と思っている。

 

そういう向きは、それでも、「何でもお金に換算する」という発想から抜けられないので、パートナーとか、男性についてもそうなのだろう。だが、ここで問題なのは、結婚相手の理想を「金額に換算する」という発想だけではない。

 

つまり、自分自身=婚活女子としてのその人自身を、「お金に換算している」という事実が問題なのである。あるいは、その発想からすると、婚活女子、その人そのものが、何でもお金に換算して、「自分自身についても、お金で換算する」という発想になってしまい、自分に自信と自身がないから、相手を高いお金に換算する、とか、自分の美貌?とか、年齢がいっている魅力?とかを、無理矢理お金に換算して、自分を高く売りつけようとする、その算段自体が問題なのである。

 

お金で何かすることが出来るのか?というと、そういう婚活女子系の人は、お金あるから、という答えになるのであろう。

 

しかし、そうはならない時代がやって来る?としたら?その人たちは、どういう基準で、実際に生きて行けるのか?というのは、どうなのだろうか?

 

お金を庭に植えたら、お金が生えてくる?という訳でもないし、そもそもお金を植えたら、食べ物が生えてくる?という訳でもない。どこぞの野球の選手の年俸として、札束をバッターボックスに置いたら、ヒットを打てる訳でもないし、ホームランを打つ訳でもない。

 

確かに、震災などで、ある程度は現金がないと、何も出来ないという現場の被災者さんたちの証言はある。だが、それは、供給される食べ物やお水や店舗やコミュニティがある程度あっての話である。

 

そういう考え方があるから、自分の場合、ご迷惑がなかったら、近所の農家さんに手伝い?をさせて貰えたら、とは思うが、この天候の都内では、自分がご迷惑をかけるのは、体験上も明らかである。そういう意味でも、自分に絶望している。

 

婚活女子系の人で、年収1000万の若い男性を、と思っている人は、それはそれで、他人の話だから知らないし、関係ない。だが、中には、そういう男性、あるいは元パートナー=旦那さんを追って、ストーカーになり、逮捕される女の人の記事もあった〜本当にそうなのかは記事だから知らない〜が、それって、終わってる、というだけの話だ。

 

女性であろうが、男性であろうが、年齢によって、できることも、できないこともあると思うが、まずは、からださんが頑張ってくれている、とか、こころさんが頑張ってくれている、という実感や発想がなければ、女性なら、便器を抱えてゲロ吐いてたり、とか、手首切ったり、とか、そういう人を、実際にたくさん知っている一人としては、年収1000万の若い男性を求めることも、ゲロ吐いてる人も、手首切ってる人も、その根っこはおんなじである、ということである。

 

年収1000万、という数字がどこから来ているのか分からないが、それは、具体的にこういう暮らしをするために、これだけ必要だ、という数字ではあるまい。何となく不安だから、年収1000万、とか、したいことが見つからないから、年収1000万、という話なのだろう、と想像する。不安だから、ということで、何か具体的な活動をするための年収1000万ではないと、個人的には思う。

 

言い方を変えると、年収1000万のパートナーが必要、というのは思い込みで、そういう思い込みをする人は、「没個性でしかない」のであって、逆に言えば、そういう人なら、どこにでも「その代わりはいくらでもいる」ということなのだ。つまり、そういうあなたは特に必要ではない、ということだ。

 

そんなつまんない人生やっても、いいところ、パートナーをATMにするだけで、何が幸せなのか分からないまんまに、老いと死だけに怯える、周囲が扱いにくい人になるだけだ。それって、そのまんま「不幸」ということである。

 

結婚相談所の方も、相談する側も、スペック、という言葉を使っておられる様であるが、スペック=性能、であって、あなた自身の存在のことではない。年収1000万、といって、年収1000万が来るのと、年収1000万の人が来るのと、どっちなのか?というか、お金さんが要るなら、別に結婚する必要はないし、結婚される側も大抵場合は迷惑なのだろう。年収1000万の人と結婚するのはやめて、1000万の札束と結婚すればいいんではないの?

 

スペック、と言って、自分も他人もお金に「換算して」、自分そのものの存在意義を失って、それでいて、漠然とした不安しかないから、相手にもスペック=お金換算と年齢換算をして、見栄と打算と世間体、でやってるのが、ネット上に溢れる婚活女子、だとしか、相当大量な記事を見た限りでは、そうとしか思えない。

 

そんなんだったら、婚活とかしないで、パートナーと求めて他人=将来的なパートナーをダシにするよりは、孤独に向き合って、っていう方が、よっぽどマトモな人生だと思う。

 

少なくとも、かなり大量の婚活女子系の記事を見る限りでは、そうとしか思えない。

 

昔、ゲーテさんが、「女はうつろいやすい、と男は言う。だが、女は、揺るがぬ男を求めているのだ」という意味のことを言っていたと思うが、そうかもしれないし、その逆のこともあるのかもしれない。

 

まずは、自分をスペックで見るのを止めること、から始めないと、どうにもならないだろう。だが、そこで勘違いした婚活女子というのは、記事を見る限りでは、相当にいる。

 

自分や他人をスペックで判断する、というのは、「モノとして自分を見る」「モノとして他人を見る」ということである。そこには、「生きられる世界」「生きられる関係」は存在しない。

 

別にスペックで幸せなら、それはそれで知らない。他人のことだから。

 

他人を「モノとして扱うから」ゲロも吐くし、手首も切る。これが本質的に、婚活女子と同じことだ。それは自分を「モノとして扱うから」自分にも、他人にも、暴力を向ける、ということである。フェミニズムも同じ理屈なのだろう。現場で知った人たちも、ネット上で見かける人たちも、結局はそういう理屈で、「生きられない自分を、更に追い詰めていく」という意味では同じなのだろう。

 

スペックではなく、別の視点や発想に目がいかないと、他人=将来のパートナー、も不幸にする。

 

そういう構造と暴力を見つめないと、多分、死んでも救われないのだろう。

 

「モノ化の世界」は地獄である。