また徹夜で中井久夫先生を読むとか、名人戦で藤井将棋を破壊する道があるとすると、とか | 巡礼者のブログ

巡礼者のブログ

ブログの説明を入力します。

結局、半徹夜。存在と中井久夫先生の本を読んでいる徹夜。名人戦の封じ手とか、当然観れない。


名人戦、高度過ぎて分からないというか、凄い手は凄い、というのは、漠然と分かるのだが、どうやってこの手を発想するのか?というのが分からない。


さっきから、タラタラ、存在と呑み始めて、存在は、◯◯ちゃんは、パターンじゃなくて、◯◯ちゃんなんだよ、とカウンセリングしてくる。まあ、そうなんだろーなー、と、それを受け入れるしかないのだが、そう言ってくれるとか、言わざるを得ない、って、主治医の言葉よりも強力なんだとしか言いようがない。


きょうもお蕎麦さんしか食ってないなー、ということで、これからご飯を作ってもよいのだが、やっぱり中井久夫先生を読んじゃうのかなー、と。古い文章でも、現在のことを見通している、というか、なんというか。


半徹夜で、存在が、中井久夫先生の文章について、非常に面白い言い方をしていた。


中井久夫先生って、全ての土俵に乗りながらも、すっ、と引くタイミングが絶妙だよねー、と、存在は言う。


これは面白い感想だ。言われてみると、存在の抜群の観察能力というか、文章読解能力と、独特の感性。それがなければ、こういう感想はあり得ない。


臨床家というと、あらゆる臨床があるけれど、精神科医独特の極め方、というか、そういう将棋ってあると思うのだけど、誰の将棋だろうか?でも、突き放す感じではなく、相手により読ませる、というか、考えさせる、って間合いで、ある種、ドツボに向かわせる?様な?手?というか、言葉というか。


ひょっとして、そういう感性の将棋って、実はまだ出ていないのかもしれないが、そういう感性の将棋ってあったら、怖い。藤井将棋を破壊?というか、極限にまで引き出す?引きずりだす将棋があるとすると、そういう将棋かもしれない。つまり、藤井将棋を藤井将棋で、自爆させる可能性のある感性?というか。臨床家は、目的が違うにせよ、対話性という意味では、ギリギリのところで、同じ技が要るのかもしれない。


そういえば、将棋の藤井さんも名古屋だけど、中井久夫先生も名古屋の時代がある。この辺り、どこか共通するところがあるのかは知らないけど、名古屋で降りたことがない自分にとっては、なんも実感がないので、わからない。都内で名古屋の発想を想像できる所って、コメダ珈琲店くらいしか知らない。あんまり行ったことはないけど、コメダ珈琲店って、ケチをすることがない、って言うか、コスト優先よりも、ファンというか、固定客というか、リピーターを増やす、って発想がある、という印象はある。変に広告的とか、ブランドイメージを捏造するのではなく、実質度とサービス度が高い、というか。しかも、固定客になれると、更にいろんなサービスを知って、ドツボ、というのは、今のところ、都内のコメダ珈琲店に対する印象。


きょうは何日か振りに、存在のオーダーで、グアテマラの深煎りを淹れるが、よくこの淹れ方で?というか、マニア的な味に耐えられるなー、と感心してしまう、というか、美味しいと言う。古くなってしまった豆からなのだが、それでも気に入ってくれる。少なくとも、趣味の世界の味。存在は結局、酒豪?みたいだし、趣味系のコーヒーも大丈夫だし、過剰適応が心配なのだが、お酒さんについては、自分の方が過剰適応してる。


自分について、より考える様に導く、って、中井久夫先生についてもそうなのだが、藤井将棋を破壊する考え方があるとしたら、藤井さんに、相手ではなく、自分自身のことを考えさせるという勝負しかない、というのが、素人的には思う。臨床と勝負とは、別の目的ではあるのだが、導く技は同じものなのではないか?というのを考えてしまう。


将棋の勝負は、勝ち負けであって、臨床家の勝負は、患者の回復である。


だが、半徹夜で、存在の読む中井久夫先生の文章の感想には、どこか藤井将棋を考えてしまうところがあって

、存在の感性と、その拡がりという意味で、なんとも面白い感想だなー、と、感服してしまうところがあった。


名人戦はまだ続くが、とりあえずは、渡辺名人の片目が開くところが見たい。そうでなければ、全く面白くない。