自由なのに、制限から抜け出せない、とか、捨て切れない、とか | 巡礼者のブログ

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朝は起きられず、昼食休憩後くらいから、叡王戦横目に、きょうもお掃除大会。改善はされているけど、本と書類を捨てる作業をしないと、本質的にはどうにもならない。


しかし、今になってみると、何でこんな書類をとっておいたのか?というものもあり、時の流れの早さというのは恐ろしい。スキャンしてから捨てるというものもあるが、その書類を振り返る時間がそもそもあるのか?という疑問がある。ましてや、本を断裁してスキャンというのも、自分の場合はどうなのか?と思う。


きょうは大切な存在と作業しているという風ではなく、作業が続いているのを見守って安心しているという様子。買い出しにも出なかったから、夜に大和芋と玉子さん抜きのねぎま納豆、という具合。安い鰻屋さんに行くという話もあったのだが、お片付けしよう、とも、ご飯はあるものだけでいいよ、と言うので、叡王戦横目に作業。千日手になってしまう。


スキャンしてから捨てたいと思うのは、将棋の雑誌の付録がまずはある。だが、App Storeで出ているアプリケーションは、あまり評判がよくない、というのがある。ホントは単なる電子書籍化ではなく、ちゃんとスキャンしたら駒も動かせる様に=アプリ化する、という機能のあるものがあれば助かるのだが、と思ってしまう。


有料でいいから、出来れば買い切りで、開発して下さる方がおいでなら助かるなー、と思う。将棋雑誌の付録というのは、ちょっと放置すると、やたらと埃っぽくなるというのがあって、スキャンしてアプリ化してしまいたくなる紙の書類の筆頭である。それにアプリになってしまえば、これほど学習効果の高いものは、自分の生活ではないと思う。


もちろん、紙の本でスキャンしてしまいたいものはあるが、そういう本は、元の紙の本も残したいもので、スキャンしたら捨てるというものではない。せっかくgoodnotes5もあるのだし、iPadと Apple Pencilを駆使して、いろいろ書き込みたいものだ。


先日、flexcil2というノートアプリの買い切りを迷って、翌日に買い切りではなくなった?様子なので、失敗した。課金には、月単位の課金なのだろう?とは思うが、月ごとの課金とは書いていないので、買い切りという話なのかもしれないが。


それに懲りて、noteshelfというノートアプリを買い切りで落とした。今のところ、動画で使い方の解説を見ているという段階。ただ、flexcil2というのは、iCloudに全部連携している訳ではなさそうなのと、flexcil2にしても、noteshelfにしても、アップグレードされて、それまで書きこんだデータにアクセス出来ないという様な評価もあるので、機能はともかく、どこまで付き合っていいのか分からないノートアプリではある。カメラで言えば、レンズのマウントが変更になったので、それまでに使っていたレンズが使えなくなる、みたいな話なのかもしれない。


とりあえず、お掃除とお片付け、となると、こういうのも考えないといけない時代ではある。


ただ、先日見つけたので驚いたのは、一太郎のiPad版があること。その時点では課金もなく、一太郎はPCでも長く愛用していたものである。日本語のスキャンも安定度が高いという。一太郎なのだから、縦書きの本でもスキャンしてPDFになってくれると大変助かるのだが、まだ怖くて、縦書きのスキャンを試していないという体たらくである。とは言え、一太郎がiPadで使えるというのは、それだけでも嬉しい。


とりあえず、これで非破壊系でiPad対応のスキャナーを買わずに済むと、お金さん的にも、場所的にも大変助かるのではある。一応、一太郎iPadでは、一太郎らしく、縦書きの書類もカメラから読み込んでくれるのではあるが、PDF化の機能はなさそうであるのと、元が縦書きの本でも、横書きのテキストになってしまう。となると、一太郎iPadはメモアプリという分類になるのだろう。あるだけでも助かるのではあるが。あとは音声のメモ機能もあるらしい。


きょうもかなりいろいろ捨てて、それなりに空間的には復活してきていると思う。あまり勢いだけで捨てると、あとから後悔するものもあるので、かなり慎重にやってはいる。やっぱり問題は本だ。


大切な存在は、もう、外側から勉強しても、そんなに意味はないよ、と言うし、せっかくいろんな存在さんたちとやり取りできているのであるから、からださんも含めて、やりとりと、表現に時間を使った方がいいよ、と言う。全く正論だと思う。


自分がやれるようになったことと、その意味と方向性は、自分でも理解できているのだから、本や記事を読むよりも、内的な対話に時間を割いた方がいいと思う。


それなのに、世の中には凄いものがあるなー、と思って、いろいろ読んだり、観たりしてしまう。そういう時間の使い方も悪くはないとは思う。


自分でやれることと、内的なやりとり、って、結局、どこに行き着くか、というと、乱暴にいうなら、世間でいう、色即是空、空即是色ということでもある。それが理解されると、まあ、結局は、意識の分節と、いろんな洗脳と思い込みばかり、という話になって、全てに意味はない、とか、それなのに、何で転ぶと痛いのか?という話になってしまう。


だから自由だ、という人もいるだろうし、意味がないんだから、何で生きなきゃいけないんだ?という人もいるだろう。


自分の場合は、最終的には、魂と生命=存在、という線を何度か体験してしまったし、それで苦しいんだから、それそのものを消しましょう、という風にはなれない。


ある種の自由にいるのではあるが、死ぬまでに実感したい自由となると、現時点では、大切な存在と共にある自由を生きる、というのがある。


そのために、捨てる作業があるし、その限られた時間と空間で生きるのか、あるいは、時間と空間の設定を変えてみるのか?というのはある。


そんなに時間は残っていないし、捨てる作業の時間も限られている。そして、世の中の方向はこんな風だ、と思いながら、あるいは、洗脳されながら、どうそれと付き合うのか?付き合わないのか?というのを、いろいろ思案している。


ホントに望んでいるもの、って、何?というだけの話で、大切な存在とは、それが何か?というのは分かりかけている。でも、それはゴールとも違うし、ある種の情と、繋がりであるのも分かっている。ゴールとかとは違う。


それはある種の関わりの中にあるもの、ではある。


面倒な話ではあるけど、もっと魂的に自由であっていいと感じている。