きのうは渡辺暁雄生誕100周年記念演奏会 | 巡礼者のブログ

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きのうは日フィルの渡辺暁雄生誕100周年記念演奏会。上皇陛下ご夫妻もご臨席。暁雄先生は、本番前の時間もホワイエでお客さんたちと話していた姿が思い起こされる。

帰りは、友人と先輩と呑んで、オレだけ撃沈していて、きょうは夕方まで爆睡という有様。

でも、きのうの、というか、藤岡マエストロのシベリウスの五番というのは、何故か、何か違う様な気がしていた。きのうもそうだった。いい演奏なのだが、何か違う。

で、最近、いつもの様に自衛隊音楽隊を聴いて、ひょっとして?と思い、Apple musicで、暁雄先生のシベリウスの五番を聴いた。なるほど、というか、何が違うのか、分かった。

暁雄先生にあって、藤岡マエストロにないシベリウスは、「予兆」「予兆感」とでも言うべきものだった。特に実感したのは、刻みの部分。小さい音での刻みの部分。

何か、戦争の時代の体験の有る無し?とか、そんな想像をしていたが、その前に、音源を聴いて、音楽的な違いが分かった。

ただ、それが理解できる?というのは、オレが分裂病系で、中井久夫先生が、「分裂病親和者」の特性としての、「兆候優位性」と仰るそれが、藤岡マエストロにはなくて、暁雄先生にははっきりとあること。それが、音楽の中で理解された。

乱暴な話なのかもしれないが、その様な受け取り方、というか、違いを理解した訳であった。

「何かがやってくる」という感覚は、そんなに珍しい感覚ではないと思うのだが、それの有る無しが、ここまで音楽でハッキリと示されると、なるほど、と思わざるを得ない。

その様な訳で、今どきは、?と思ったら、他の音源を手元で比較する、という事が簡単な時代である。こんな事を理解できるのは、そういう環境があってのことだと思う。

夕方まで寝て、暁雄先生の音源で、はっ、と気がついてしまったが、でも、もう少し感覚さんを休めて、もう少し聴いてみようと思う。少なくとも、きのうの五番と、さっきの音源では、まるで本質が違うということを理解したのである。

そこで目覚めないといけないのに、もう少し休まないとダメだ、と思ってしまう。分裂病親和者、というか、オレの場合は既に病人なのであるが、これはもう、感覚的な問題なので、どうしようもないのだが、感覚で分かってしまったのだから、仕方ない。

きのうの演奏は、予兆ではなく、ルンルン〜死語か?〜という感じで、世界がまた違っていた。良くも悪しくも、根が明るいシベリウスだった。

これからまた休んで、あー、勉強しなきゃ、というモード。図書館からいい本、たくさん来てしまったし。時間と、過覚醒による疲労との勝負。

きょうはモーニングページも書けなかったし、これから勉強のお時間?である。