怒りのエネルギーを観察し、その中心に飛び込む作業となるのか? | 巡礼者のブログ

巡礼者のブログ

ブログの説明を入力します。

安息日。というか、時間が早いのだが、きょうはまた、腹さんの底?から、怒りのエネルギーを感じて、レスター・レヴェンソン的?な作業をしている。しかし、前回と違って、そのエネルギーを観察しても、心臓さんの方へと上がって来ない。

前回の、自分に対する怒りのエネルギーは、もうオーラまでも、その様になって、「その感覚をただ、観察し、実感し切って」「そのエネルギーの中心に飛び込んでいく」という作業になった。

結果として、脚フェチまで消えてしまう、という恐るべき内容となったが、今回は難しい。

難しいのは、全身がそのエネルギーにならない、あるいは、心臓さんのところまで、そのエネルギーが来ない、という事で、観察と実感までは出来るのであるが、「そのエネルギーの中心に飛び込む」という作業にならないのである。

という事で、きょうは、早めにその作業の続きをやる、ので、早めに書いてしまう。

今回の怒りは、社会とその構造に対する怒りであると、ハートさんは言う。ハートさんやからださんにコーチしてもらいながら作業するのは、前回と同様である。

レスター・レヴェンソン的?にやるなら、この段階でも、感じ切って、「それを愛に変える」?という事になるのだろうが、オレ的には、それはムリだし、違う。

愛に変える、という作業が、何か違う。白人のキリスト教徒?だと、その様な発想になるのかもしれないが、オレがやるプロセスとは違う。そして、いわゆる「愛」というものが分からない、「愛情障害のオレ」としては、違う発想で、この作業に取り組んでいる。

そのエネルギーの正体を知って、実感し切れば、それは消える、というのが、前回のオレの体験であり、ある意味では、レスター・レヴェンソンを超えたやり方なのかもしれない。超えた?というのは、別の何かに「書き換える必要がない」ことと、「それで、充分、問題の焦点に行き着く」と感じているからだ。白人のキリスト教徒や、ユダヤ系の様な感じ方は「必要ない」あるいは、「それはその文化の限界である」という事で、その文化の限界に支配される必要はないのである。

それこそ、レスター・レヴェンソンの愛した、マハルシ的な?「あるがまま」なのかもしれないのである。愛である必要がなく、あるがまま、でよい、という風に思えるのである。

その様な訳で、暫くしたらまた、その作業に入るが、たぶん、「そのエネルギーが、心臓さんのところまで来る」なら、そのエネルギーの中心に飛び込むことは可能である、と思う。前回は、オーラ全体まで、その様な状態だったので、そのエネルギーの中心にある事が、簡単だったと思う。

今回もそうだが、それこそ、セドナメソッドのwelcome!である。そのエネルギーに、来い!どんどん来い!という作業で、それを観察し、実感し切る、という事までは出来ている。レスター・レヴェンソンなら、それで充分、で、次にそれを愛に変える、書き換える、のだろうが、そこがオレとは、違う。

その様な訳で、オレがやっている作業は、セドナメソッドでもなんでもない、という事かもしれない。勝手にやってるだけで、あとは、知ったこっちゃナイ、というだけの話だと思う。

あまりハウツー本的にはならず、自分の在り方に合った作業をしていく、という事で、もちろん、これをハウツー化するつもりもない。これは単なる記録である。

きのうは徹夜で、勉強というか、考える時間だったのだが、ひょっとしたら、それが影響して、思うところがあり、きょうは、こういう状態なのかもしれない。

それについては、多分、ヘリゲルさんの弓の話と、ルドルフ・シュタイナーが述べているという、東洋人は魂がからださんの外にあった時代を生きている、という話の関係?についての憶測、推論を、また書かないといけないと思う。それは、多分、シャーマン的な、「降ろす」という作業と、新元号後の世界観についての推論、という話になると思う。

しかし、今回、また新たな解放をしてしまえば、違った考えになるのかもしれない。あるいは、その考えを強化する体験になるのかもしれない。

今回は、少しエネルギーが弱い?否、充分に強いのであるが、まだ、時を待つ必要が、解放するにはあるのかもしれない。

あるいは、しばらくして、徹夜モードにすると、ハートさんも、からださんも、コーチし易くなるのかもしれない。エネルギーも、心臓さん、それ以上のところに上がってくるかもしれない。

ほぼ定時から外れているが、きょうの作業で、からださんも、ハートさんも、今のうちに書け、というので、その通りにした。