松本キックさんが書くハウス加賀谷さんのことと、同病のオレ | 巡礼者のブログ

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主治医の時間。施設に行ったが、元所長さんは不在。仕方ないので、某所で激安のお酒さんを呑む。

ハートさんと話せる様になると、実は、なかなか厳しいものがある。極端な言い方をすると、ハートさんは、ハートさんのトラウマの時間で止まっていた事もあって?かなり、子供的?な要求もあるし、時には、真理もいう。

明らかに、段階を超えて、違う世界に来ている、というか、モロに、オレは生きててはいけないモードになる。しかし、それは、治療でも新しい段階なので、苦しいのは仕方がない。

あんまり苦しいので、たまたま、本棚にある、松本キックさんの「相方は、統合失調症」という本を読んでいる。相方さんは、ハウス加賀谷さんで、当事者である。

この本は、施設関係の例会で買ったもので、お二人がゲストだった。コントもあるし、今までのお二人の体験談の時間でもある。

例会が終わって、この本にお二人のサインを頂戴した。ハウス加賀谷さんに、自分も同病です、と告げたら、気合いの入った握手をして、「お互いに頑張りましょう!」と言って下さった。このお二人のライブを、オレは一生忘れないと思う。

キックさんの冷徹とも言える観察眼と、それを支える文章力。ハウスさんへの思いやり。ハウスさんが、どうにもならない状態、それでもお笑いをやりたいという意志。

ハウスさんとオレが違うとしたら、ハウスさんは、お笑いという世界の性質上、常に自分というものを超越しないとならないという過酷なテーマがある。ギャグというのは、そういう過酷な世界であり、そして、それを観る人たちがいて、その評価がある、という恐ろしい世界である。

キックさんの文章は、冷静さに徹していて、不思議なことに、それがオレには救いになる。冷徹である、というのは、現実がどうであるか?というものを正確に伝えていて、それは、オレのような者にも、足したり引いたりせずに「理解している」という視点であるからだ。

整腸剤に始まり、脚フェチが消える、とか、ハートさんと話せる様になる、とか、手さんや、普段の光景が違ったもの=超越的なものに見える、という、かなり画期的な?回復であるが、そうすると、当然、その先の問題にいく訳である。

コント、とか、ギャグ、と言うと、最近見る夢は、ギャグとコントで成り立っている。オレ自身をギャグにし、コントにするのは、無意識さんの仕事である。無意識さんというのは、やはりエライのである。

きょうはかなり辛い日なのであるが、それなら脚フェチが残っていれば、まだ救われたのに、とも思う。しかし、オレは、誰かと脚フェチプレイ?とかやった事がある訳ではない。

直視、というのは、どこかでバランスがないと厳しい、キックさんの冷徹な観察眼は、禅僧さん?の観照の世界の様でもあり、コントやギャグに求められる、自己超越と、禅僧さんの求めるお悟りの世界は直結している様にも見える。コントもギャグもお悟りも、多分、違いのない世界なのではないか?と思ってしまう。悟ったら、笑いが止まらないという話もあるし、オレ自身は、今回の一つの段階の超越?で、「知ったこっちゃない!」という認識にたどり着いた。

治療を受けることも、また、自己超越の世界なのだと思うが、治療はまた非日常の世界であり、日常をどうするか?というのが最大の課題である。治療が日常化していては、これもマズイ訳である。

その様な訳?で、きのう少し触れたのだが、「これは愛なの!」とか、「あなたのことを思ってやってるのよ!」という言葉の日常に被爆してしまうと、廃人化する訳である。少なくとも、オレの場合は、その影響は大きい。

となると、「他人を愛してはいけない」とか、「オレは生きててはいけない」とか、そういう廃人化の人生になるので、言葉というものは、恐ろしいものである。

中井久夫先生の本に「分裂病にとって、言葉は重い」という件があるが、まさにその通りである。発症後もあるが、問題は生まれて来た素因もあり、その後の人生もあり、先天的なものと、後天的なものがあるのであるが、先天的なものを、後天的なものを開花させてしまう、ということはある。

統計的に、分裂病系というか、統合失調症系というのは、どの地域、どの民族にあっても、全体の1パーセントが発症する、という、珍しい疾患である。百人に一人は発症する。

中井久夫先生によれば、まだ、人類が、生き物として弱かった時代に役立った感覚が、分裂病=統合失調症的な感性なのではないか?というのである。

つまり、獲物さんの気配とか、天候の変化に対する感覚とか、そういう微妙な変化を感じ取れることが、その時代の人類には、生き延びるために役立っていた、という話である。

その感性を保ったり、使えたりしている人を、中井久夫先生は、「兆候優位性」という言葉にまとめている。遠いものを近く、近くのものを遠くに感じる、という感性である。

その感性が活きれば、獲物や天候の予兆や、異性の獲得などに役立った時代があり、その感性を、
DNAなどの記憶として受け継いでいる人がいて、それを中井久夫先生は、統合失調症親和性、分裂病親和性、と呼ぶ。そして、そのどれくらいかが発症する訳である。オレなぞは、シャーマンとしての能力が顕在化してしまう。かつての人類なら、非常にそれは役立つ能力、ということになる。

世間では、株価がどうの、マーケットがどうの、という話があるが、実は、そういう分野にも、統合失調症親和性=分裂病親和性、という感性は役に立つ。つまり、遠い予兆を近くに感覚するので、下げは上げの予兆、上げは下げの予兆、という事で、損はしないし、上がる局面で買ったりはしない。下げがあると、上げの局面、と感覚されるので、損をする個人投資家の様にはならないのである。

それは一例として、その様な感性というのが、現代でも役立つ分野、というのはあったりするのである。漁村さんもそうだ。シケの予感があれば、休む、大漁の予感があれば、船を出す、という、命と暮らしに直結する感覚である。逆に、農村地帯では、その様な感覚は否定?されたり、発症した人は、存在自体を認められなかったりするので、農村部での患者の回復は悪い、という傾向はあるようだ。

ずいぶん、一般的?な話になってしまったが、キックさんの感性が憑った?のか?大変は割に冷静な話になってしまった。

元は、「これは愛なの!」とか、「あなたのことを思ってやってるのよ!」という言葉の積み重ねが、発症の原因になる、という話であったが、きょうはこういうモード?なので、こんなところである。

あすに、その続きがあるのか?それは定かではない。きょうを生き、あすもあるのなら、きょうはきょうという世界で、あすはまた違う世界である、位に感じていないと、ホントに辛くなるので、このへんである。

きょうはきょう。あすはあす。