死を忌避する都内の生活と、歪んだ人生観 | 巡礼者のブログ

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施設の日。四カ月ぶりに床屋さんに行く。それでも、今月を計算すると、マトモ⁇にやって、一日で五百円、無理矢理に制限しても、一日で九百円、であるから、今のうちに床屋さんに行っておく必要はあった。都内は気温が激しく上昇しているし、今日しかなかったのである。

お金さんが使えない、というか、そもそも、一日一食が基本である上に、少し余裕があったら、激安のおにぎりさんを食う、くらいである。

最悪なのが、一日一食を何とかしている、納豆そばさんが、仕入れを制限しているのか、あるいは、オレの様に極貧?の人たちが増えて?何とか生きていくために、納豆そばさんの材料が、昼のかなり早い時間になくなってしまう、という事なのかもしれない。

しかし、納豆そばさんの材料は、生ものさんであるから、あまり早い時間に買ってしまっては、腐ってしまう原因になるので、オレみたいに、結構、毎日が移動という生活だと、早い時間に納豆そばさんの材料を仕入れる事は、危険だし、浪費である、という事になり、最近のオレの通常では、五食で百四十八円の、激安インスタントラーメンさんが主食、という状況で、まあ、海で、プラスチックの粒子さんを喰って、その満腹感で、喰わないで死ぬ、プランクトンさんや、お魚さんの稚魚さんたちとおんなじ様な生活をしている訳である。

そんな訳で、マトモな食事も出来ないでいるのだが、それでも、からださんは生きてしまう、という残酷さと、その矛盾で、奴隷化されて生きて⁇いるのである。

最近、というか、ここのところ、かなりの年数の話ではあるが、都内の焼き場=亡くなった方々のからださんを焼くところ、が、もう、順番待ちが大変である、という話がある。

どういう事か?というと、焼き場では、「昔の仏様と違って、焼くには、二倍の時間がかかる」というのである。つまり、合成された食い物さんによって、からださんが、マトモでないからださんになっている、から、焼くのに二倍の時間がかかるのである。千島学説ではないが、食い物さんが、血となり、肉となるのであるから、今や、高齢者さんも含めて、我々のからださんは、人工科学合成物でできていて、それ故、焼き場でも二倍の時間がかかる訳である。

高齢者さんで、亡くなる方々は、もちろん、ある程度は一定数であるのだが、焼き場で、「焼く時間が二倍かかる」のでは、実情として、これはどうにもならない。そして、焼き場、というのは、少なくとも、都内では、忌避される存在になっていて、「ウチの近くに焼き場を作るな」という運動?もあるし、そもそも、この日本の現代の都市生活に於いては、「死」というものすら忌避、排除されている。酷い話になると、「近所に焼き場ができたら、ウチの資産価値が落ちるから、焼き場反対」という話もあるのである。

資産価値、で、反対運動が起こるのは、焼き場だけではない。イジメによる自殺があって、そのご両親なりが、頑張って何年か訴訟をやっていると、その地域の住人さんたちが、「イジメ自殺の訴訟をやってくれると、ウチの資産価値が落ちる」と、主張している方々もいる、という話があって、本当にそうだとしたら、「そんな地域こそ、資産価値なり、人間価値が低く評価?されるのは、また当然?」なのではないか?とも思ってしまう。しかも、もし、ひょっとすると、イジメて、被害者を自殺に追い込んだ児童の親が、そう主張しているとしたら、まあ、本当に酷い話である、と、オレは思ってしまうのである。

そんな訳で、都内で忌避されるのは、「死ぬこと」「イジメられ被害者が自殺すること」「近所に焼き場ができること」という話になり、まあ、ホントにやってらんない話なのである。

で、それなら、そう主張する人たちは、決して死んではいけない筈、なのであるが、大抵、というか、超例外は別にして、死ぬし、それなら、自分が死んで、それで、ご近所に迷惑をかける、ご近所の資産価値を落とす、などという当事者意識は、多分、ない、というか、欠落しているので、まあ、その手の方々は、真性のバカであり、真性のエゴイストである、と、判断せざるを得ない、というのが、オレの感覚である。

ただ、死体さんを焼く、というのは、ある意味、日本独特の風習と、かなり最近=敗戦後になってからの法律の問題である。

日本で、死体を焼く、というのが始まったのは、仏教伝来以来の事であり、当時、奈良時代としても、「死体を焼くなぞ、残酷である」という話と抵抗感は、相当にあった様であり、死体を焼くのが当たり前、となったのは、比較的最近の話なのである。

とはいえ、例外も存在する。最低に言っても、違法行為であり、しかし、土葬を認めてしまった例外はある。つまり、3.11=大震災の、特に、津波で亡くなった方々は、誰であるかも判別出来ぬまま、しかも、焼き場も、もちろん被災しているし、どうしようもなく、故人が誰であるかも分からぬままに、土葬、となってしまった。

せめて、服などから、誰であるかが判別できるなら、まだ、何かしたのではないか?と思うが、特に、津波で亡くなった方々は、服も一様に土の色になってしまうし、手掛かりが少ない、という実際の問題があって、土葬の無縁仏様が、数々ある、という風に聞いている。

土葬だから、とか、法律違反だから、とか、焼かないといけない、とか、言ってる場合じゃなかった、というのは、あの津波の破壊力を、映像で見る限りでは、どうにもならなかった、というのが実情だと思う。棺桶さんがあれば、まだマトモな方である、という話になってしまうのだと思う。

という訳で、「マトモな死に方」とか、「マトモな葬られ方」とか、「都内の焼き場の現状、あるいは、新たな焼き場を作るための現状」という事を考えると、最低に言っても、如何に、都内での死に方が難しいか?というところに帰着するのである。病院で死ねたら、マシ。自宅で死ねたら、もっとマシ、あとは、忌避されるか、そもそも、死んでいる事自体を発見されないか?というのは、都市伝説の類ではない。

実際、ウチの団地では、しかも、同じ階の方が、「推定、死後一ヶ月」という事例があり、その方のお顔も存じ上げないし、一人暮らし世帯でもないお部屋さんなので、そんな事すら、オレ自身が、想像できなかったのである。

不幸中の幸い、が、オレの場合あるとしたら、障害者ということもあり、病院に来なかったら、施設に来なかったら、「おかしい」という訳で、関係各所が動いて下さる、という訳で、激安インスタントラーメンしか喰っていなくとも、死んでからのご迷惑を、最低限に抑える事ができる訳である。

更に、オレの場合、お役目での戦死、あるいは、存在さんとの合一による「不審死」という可能性があるので、主治医や、関係各機関には、その場合の遺書の在り処もお伝えしてあるので、オレとしては、それが、世間への最後?最期?の義理?という事になっていて、同じ階の方の様なことには、ならない事になっている。

昨今は、孤独死、についても伝えられているが、そうした事例として読んだもので、「最悪」と思えたのは、「震災の被災地での仮設住宅での孤独死」である。

電気もガスも止まっていて、しかも高齢の方である。お知り合いの方から、「おかしい」という話はあった様ではあるが、対応が遅れて?推定死後数ヶ月、という、何とも痛ましい話がある。

オレの近所でも、毎日利用させてもらっていた、和菓子屋さんは、老老介護のために、廃業に追い込まれてから、もう、七、八年は経つ。少なくとも、都内の、「死をめぐる環境と実態」についてはそうである。

とりあえず、オレ自身については、ご迷惑は最低にできる環境にはあるのだが、都内も、こう急激に気温が上がってくると、少々心配にもなる。オレから出来る対策としては、調子が悪くて、施設や病院を欠席する場合、必ず電話を入れておく、くらいしかない。皮肉にも、事情を知らない団地の方々に発見される、という事になると、また、却って厄介な事になる。

そんな訳で、都内、の「死をめぐる現状」は、そんなところである。