神々の黄昏から、人間の黄昏へ | 巡礼者のブログ

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きのうは、箱庭療法六十三回目のあと、新国立劇場で先生の神々の黄昏。指環を通しで聴くのは、これが初めてである。神々は、特に舞台にお金さんがかかっていて、こういうのが劇場なんだな、と、天井桟敷からは思う。

ただ、どうも、指環に限った事ではないが、こうして、新国初心者として、通ってみると、何か、ちんまりとまとまってしまっている、とか、お客さんに、音楽を切実に聴きに来ている、という感じが薄いというか、お金さんがある人が来ている〜実際に切符は高い〜という感じがしてしまい、オレのいる場ではないな、と思ってしまう。

文化会館とかでは、そのあたり、ちょっと違っていて、文化の方が過ごしやすい感じがする。文化は、建物としても、事業として立派だ、と今でも思うし、新国は、何となく、中途半端な事業に感じられてしまう。しかも、何と言っても、レジデントのオケがなく、指環だけでも、三つのオケが四回の公演で入れ替わるのだから、音楽的経験は蓄積されない。特にそのあたり、日本のビンボーさを感じる。そういうオレも、素うどん喰って、最高の演奏を聴きに行く、という人種であるから、何ともやり切れない気持ちになる時もある。

それと、新国に限ったことではないが、いい演奏を聴いても、ウチに帰る環境が劣悪。帰りに大江戸線乗って、ラッシュで帰るというのは、やり切れないものがある。

特に、きのうもそうであるが、途中で座れたのはいいのだが、反対側のお客さんたちは、全員iPhoneの画面ばかり見ていて、車内の様子を見る訳でもなく、幻想の世界にいる。iPhoneの画面に集中?しているから、電車降りても、みんな目が寄っている。その目で何を見ているのか?

やってられなくなって、早くそこから抜け出そうとするのだが、また、演奏会の時に、大江戸線に乗るのだろう。そしたら、演奏なんて、意味なくなるのではないか?と、先の事を考えて、更にやってらんなく思う。

電車の中の人たちは、目の前現実などには関心がない。どんな美人さんがいたとしても、みんなiPhoneを見てる。これが、オレの住んでる世界だ。何とも嘆かわしい。そして、オレも、これをiPhoneで書いているのである。死にたくなる。

どんどんアホらしくなっていき、演奏会も行かなくなってしまうのかもしれない。

帰って、何故か動画で出ている、緑川まりさんのブリュンヒルデを観て、泣く。三度くらい見た。こういうのが、降りて来てるって事だと思う。

時代は進歩?しているのか?後退しているのか?よく分からない。

ただ、言えるのは、奴隷化社会に磨きがかかって、もう、目の前の事にすら、人々は関心がない、という事である。

目の前、そこに、全てがある筈なのに。それが、「今、ここ」という事ではないのか?

スピリチュアルとか流行っていても、今、ここ、とか言っても、分かってないから、iPhoneを見てる、目の前の事を目撃しないのね。

なかなかやってられないものがあるのである。

願わくば、心から、心へと...