「今、ここ」と「自分という連続性」と「選択」と | 巡礼者のブログ

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主治医の時間。施設。主治医とは、「いま、ここ」と「連続性」の話になったが、自分という連続性も否定せず、いま、ここ、にもある、っていう、当たり前だけど、難しい話。

Amazonのいろんな本の書評とか見ていると、ブレサリアンの秋山弁護士が、そのことを簡潔に仰っている様に思う。「自分を大事に、自分に正直に、そして、過去の自分も否定しない」と、そんな感じだ。

で、ついでに手元の秋山弁護士の本の序文に、不食の師匠であるジャスムヒーンさんの「アドバイスを受ける時のアドバイス」という話がある。

それは、「そのアドバイスが、自分の自由を広げるものなのか、自由を制限するものなのか、をチェックする」という指針である。自由を広げるアドバイスなら、受け入れてもいいし、制限するアドバイスは、受け入れる必要はない、という話である。

単純な様で、難しくもある話なのだが、非常に大事な視点だと思う。秋山弁護士にしても、食べない、という事が、自分を自由にする選択だった、という訳である。

だから、選択は人によって全く違う訳である。

主治医との話でも、やはり、「選択」という言葉が、主治医から出てきた。これは、多分、偶然の事ではなくて、からださんの連続性、からださんの代謝、ってあるから、自分のからださん、って意識はあるけど、からださんだって、今もどんどん変わってる訳である。

だから、多分、なのだが、からださんは、連続性のある自分、でもありながら、いま、ここ、でもある訳である。そこに、選択、って話が出てくる、って、何を食べるか、何を食べないか、あるいは、何も食べないか、とかの、自分、意識さん、無意識さん、とかの選択で、からださんも、その選択の様に変わる訳だ。

となると、自分の連続性➕今ここ、には、選択って事が重要だ、ということになる。その結果、が、「オレ」という意識、無意識、があるんだと思う。

「オレ」の場合は、それを、存在さんたちとの対話、合議でやってる、ということだろうし、合議する前に、反応しちゃったり、反応し過ぎたり、反応できなかったり、って事の連続が、オレ、になっているんだと思う。

存在さんたちとの対話が始まったのは、もう十年も前の事であるが、存在さんたちとの対話、合議は、オレの場合は、自由を広げることになっただけで、他の人だったら、逆になってしまうかもしれない。

たまたま、オレは、存在さんの呼びかけに気がついて、存在さんたちの言葉を降ろす、だけではなく、「対話」出来るのが分かった、というのが、ラッキー、というか、そういう「空洞」という在り方のオレ、に気がついて、それをまた、主治医は支持したというのもラッキーだったと思う。

でも、普通?は、見えない存在さんと話す人は少ないだろうし、呼びかけがあっても、気がつかない、とか、気がついても、それにどう対応したらいいかわからない、とかいう事があるのだと思う。

極端な例だと、インナーチャイルド、とか、ハイアーセルフ、とかいう言葉は、今では結構知られているが、実は、ここがどうなのか?ということがある。インナーチャイルドでなければ、ウニヒピリさん、とかもそうだ。

で、そういう見えない?存在さんたちがいる、って事を知った結果、それで自由になれれば、ラッキーなのだと思うが、時々ここに舞い込むメッセージに、「ウニヒピリさんと話せないので困っている」とか、「ウニヒピリさんがわからないで困っている」とかの相談がある。

その場合って、ウニヒピリさん=インナーチャイルドさん、の事を感じてあげられないから、「苦しんでいる」「悩んでいる」訳だから、かえって、ウニヒピリさんとか、インナーチャイルドさんとか、ハイアーセルフさんとか、いう「概念」が、その人を苦しめているだけで、特に、ウニヒピリさんとか、インナーチャイルドさんの声がわからない事で、「罪悪感を持ってしまう」!んである。そしたら、自由でないし、苦しいし、それは、本末転倒なんではないか?と思う。

インナーチャイルドさんにしても、ウニヒピリさんにしても、ハイアーセルフさんにしても、とりあえずは、「概念」で、それは、その人の苦しみを楽にしたり、本当の自分ってこうだったんだ、って感じて、自分が受け入れられる様になったり、とか、そのためにある「概念」なんだから、ホントに出会っちゃった場合は別として、自分を追い込む様になったら、そういう概念は、その人には、向いていないだけ、なのだと思う。

だから、その人の場合は、ムリにインナーチャイルドさん、とか、ハイアーセルフさん、とか、ウニヒピリさん、とか、重大に考えることはないと思う。それで、悪い、とか、劣っているとか、そういう訳でもないんだし。

オレの場合は、分裂病系、統合失調症系だし、それだから、見えない?存在さんたちと対話してても、ヘンなヤツ、で済むし、病人だからね、で放置しておいてもらえる。

でも、オレの場合は、存在さんたちが、重要なことを話してくれたり、アドバイスをくれたり、ヒントをくれたり、見方や感じ方を修正してくれたりする訳だから、オレには役に立ってる、というだけ。

でも、周囲の少数の人が、その人にも役立つ話しをしてくれたりするので、オレの使い方を分かって、そういう少数の近しい人には、役に立ったりする場合があるだけ。これ、ヘタに、多数が分かってくれたら、オレの症状は悪化する可能性は充分にある訳だし、今のバランスで、ラッキーなのだと思う。

そんな訳で、オレには、向いていたのがラッキー、なだけで、結果として、それが「オレの選択だった」というだけの事である。それに、最初に対話し始めた存在さんが、実はハイアーセルフさんだった、って知ることは、結構、あとになってからだし。別に、ハイアーセルフさんと話そう!とか、構えたり、努力した訳でないし、そんな事をしたら、却って話せなくなるし、最初に、自分がおまえのハイアーセルフだ、とか言って現れたら、こっちは、緊張感で訳が分からなくなっていたと思う。

まあ、オレの場合の、そういうやりとり、って、知られているイメージでいうと、ヒカルの碁、が、とっても近い。正しく、あの世界。

でも、人によって、それは違うのだから、「その人にとっての、内的な対話がある」ってだけで、充分なんだと思う。問題は、その内的な対話で、却って、落ち込んだり、自分を追い詰めたり、傷つけたり、っていう人もいるにはいるから、そういう人は、精神科医とか、サイコセラピストとか、カウンセラーは、役に立つ場合があるということ。でも、精神科医にしても、カウンセラーにしても、サイコセラピストにしても、相性もあるし、ラッキーも、アンラッキーもあるから、ここは、またその人なりの感じ方とかによるのだと思う。

それに、ラッキーだったら、ラッキーでいいし、アンラッキーだったら、アンラッキーだっただけ、でいいんだと思う。

オレの場合は、病気になったこと自体が、ラッキーだったんだと思う。病気、って、メッセージだから、そこで自分のことを見直す訳だし、この症状、病気さんは、何をメッセージしてるのかな?という風に思える様になると、それは、回復が始まっている、という意味なんだと思う。

あんまり普通ではない感じ方かもしれないけど、主治医や、施設のスタッフさんとは、話して、意味が通じるみたいなので、とりあえずは、これでいいな、と思う。