まぼろしの市街戦、という現実 | 巡礼者のブログ

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近所のホールで、障がい者系のコンサート。辛くなって、施設に行くと、友人からお茶のお誘いで、音楽の様々な問題を話して、また施設に戻る。施設で、元所長さんと、旅の検討と、世界情勢の検討。こんなに世界を巡って仕事を続けた女性というのは、まだ少ないかもしれない。ソ連の大戦車隊を横目に砂漠を一人で渡った、という根性の持ち主というのは、世界で、男性でも殆ど存在しないのではないか?

彼女にしても、今月から来月初旬というのは、やはり危険、という視点があり、いろいろな事態を想定しないといけないという事であった。

そして、図書館から借りた、ポジティブ思考を捨てなさい、という本を熟読していた。これは、大嶋信頼さんの本に出てきた、エッティンゲンという人の本である。

しかし、午前中からの、コンサートで、かなり打撃を喰らった事を、そのままに出来ずに、別のスタッフさんに話を聴いて頂いた。

いろいろあったが、一番ショックを受けたのは、ある施設の踊りである。踊りそのものがショックだったのではなく、踊りの始まりと、終わりに、「きをーつけ!れい!」の一言が入る事である。

三十人くらいのダンスであり、知的障がい系、身体障がい系、その両方系の方々であったが、それなのに、何故、「きをーつけ!れい!」なのか?これがオレにはショックである。そんなこと言わずに、やれることをやるだけで良いではないか?と思うのだが、踊り一つにしても、これは相当に練習を積んだ結果であるのは、一目瞭然であり、もちろん、いろんなハンデを抱えての舞台である。

なのに、何でまた、きをーつけ!れい!、でなくてはならないのか?

楽しんで踊っている人もいれば、踊るだけで大変そうな人もいる。それだけではいけないのか?

今日は、音楽の話を、ずいぶん友人としていたが、そもそも、西洋音楽が、何で日本に入ってきたか、と言えば、当然、軍隊を強くするためである。一つの音楽に合わせて行進するなり、構え!撃て!であり、きをーつけ!である。

だから、その亡霊が、障がい者にも適用される。障がい者まで、軍隊の戦力にしたいから、パラリンピックなんてものはある。単なる自己表現ではなく、規格等一された動きを、命令通りにこなすのが、西洋音楽が日本でも高度成長した理由である。そうしないと、負けるから、である。

オレは障がい者ではあるが、精神系であって、また別の問題があるのだが、普通の人?健常者?の人で、毎朝朝礼があって、ひょっとして、きをーつけ!れい!、があって、それが続いたので発症した人は幾らもいるのではないか?少なくとも、オレはそういう人を何人か、知っている。

で、施設で働いているだけでも、苦労も楽しみもあると思うのだが、きをーつけ!れい!を、施設でも普段やっていたとしたら、オレには相当怖い環境である。今日の舞台でだけなのかもしれないが。

あるいは、きをーつけ!れい!が、出来ないと、社会に通用しない、という意識がどこかにあるのか、キチンとできないといけない、という意識がどこかにあるのか、障がいがあると、普通よりキチンとできないといけないのか?と、いろいろ感じる訳である。

きのう、駅のトイレで遭遇した光景であるが、スーツもネクタイもして、トイレの鏡に向かっていろいろ話しているのである。その人は、会社で働いている人なのか、それとも、例えば、家で厄介者扱いで、ウチにいないで欲しい、と言われて、世間では通りが悪いから、と、スーツもネクタイもさせられていたのだろうか?それとも、オレは、偶然に、発症したその場面に直面したのだろうか?

世間に通りが悪いから、親から、スーツとネクタイをさせられて、外に出ているなら、それは、今日の舞台の、きをーつけ!れい!と同じ意味なのかもしれないのである。

何度か遭遇した人がいるが、バス停の前で、はい、並んで下さい、並んで下さい、と、誘導している人がいる。バス会社の人とは思えないし、警備会社の人でもない。でも、並んで下さい、並んで下さい、と、腕で誘導している。

多分なのだが、その人は、何かの役を演じていることが、世間?世界?社会?であると、認知しているのではないか?明らかに不思議な光景であるのだが、その人から見た世間というのは、そういうものなのかもしれない。何か、昔のフランス映画の、まぼろしの市街戦、をライブで観ているような光景だ。

役割?仮面?立場?そういうものが、世界では一番必要で、みんな?そうしているから、どれかの役割?仮面?立場?をやればいい、と、そのバス停の人は思っているのかもしれない。となると、社会というのは、その人にとっては、「ゴッコ」なのかもしれないのであり、社会の?人は、自分が、毎日「ゴッコ」をしているという自覚がないだけなのかもしれない。となると、ゴッコをやってる自覚がない、というのは、異常?ということではないのか?

で、無自覚なゴッコ、で出来ている社会に、きをーつけ!れい!で、始まり、終わる、というのは、かなり、社会の、というより、社会という「ゴッコ」に対する手厳しい、しかし、無自覚な観察結果なのかもしれない。

そうなると、あるのは、百万の狂気だけ、なのかもしれないし、ゴッコの仮面がもう、顔から取れない状態になっているのかもしれない。国会中継なぞ、その典型である。

バス停の人は、それを鋭く観察しただけなのかもしれないし、駅のトイレの鏡の人は、無理矢理スーツとネクタイで、昼間は家から出されているのかもしれない。そうすれば、世間では、通用する、という、観念が親にはあるのかもしれない。

こうなると、誰がおかしいのか、何が異常なのか、全く分からなくなってくる。そもそも、正常と異常というものは存在するのだろうか?あるのは百万の狂気だけ、と、オレは呆然とするのである。