精神保健福祉講座に行く | 巡礼者のブログ

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遠い方の施設での、精神保健福祉講座に行く。まあ、パネリストさんたちと講師の先生の催し。

パネリストさんたちは、入院の経験がある方、ない方、閉鎖の経験もある方と、それぞれ辿ってきた道が違う。重い話もあるが、重い話が究極の笑いにもなる、ということはあることだ。

精神を患った場合、どうやって、自分を生きていったらいいんでしょうね、という話である。

オレは入院の経験はなく、志願したことは二回位あったが、主治医の判断では、入院だと却って生活しずらい、ということで、外来で保たせてきた、という経緯はある。

閉鎖だったパネリストさんは、ある日警察が来て、自分を連れて行き、入院させられた、という酷い話である。異常、のレッテルを貼られれば、警察が動く、というのは、オレには分からない。立派な人権侵害だと思う。

オレも団地の権利を手にする前は、長らく下の住人の暴力に悩まされ、オレが防衛した際に、オレの方が警察に連れて行かれたという事がある。警察としては、そのままで閉鎖病棟に入れるつもりだった訳である。酷い話である。

その時代から考えると、団地の権利は本当によく手に入ったものだと思う。この部屋がなければ、治療も進まなかっただろう。

今思えば、度重なる、下の住人の暴力も、入院を志願するのは、安全感を求めての切実な選択であった訳である。しかし、幸い、団地が当たった。

パネリストさんにはなかったのだと思うが、閉鎖病棟から開放、開放からグループホーム、そしてアパート、という流れを辿る人もある様だ。オレの場合は、浮浪者だったから、緊急保護、となったが、それでも、なかなか受け入れてくれる所がなく、患者になっても野宿の時代が続いた。辛うじて荷物置き場が住所だが、住めるところではなかった。

当時から考えると、今時は、グループホームとか、中間的な生き延び方が増えて、デイケアに行くとか、デイケアを拠点とする、という在り方が増えて来たのだと思う。

ただ、デイケアも、その病院の方針が大きく影響するから、マトモなデイケアもあれば、自殺者続出のデイケアもある。オレは両方体験している。自殺者で、関わりのあった人は多いから、もう、今は、他の患者さんとは関わらない様にしているが、死んだ人は、オレの中ではまだ生きているし、ましてや、死者とも対話できる能力を身につけた身としては、それが時々ライブになるのである。ひょっとしたら、その重みが、オレをシャーマン的な存在にしたのかもしれない。喪のお役目でもある。

パネリストさんで、今でも死にたいと思う時がある、という話があったが、オレは、死に向かうのに慣れ過ぎてしまい、カヲル君ではないが、生と死は等価値なんだ、となってしまい、実際、生きている存在さんの声も、この世にいないことになっている存在さんの声も、差がなく聴こえてしまう。幻聴という意味ではなく、それもオレのお役目である。

ただ、幻聴というと、就労支援の三ヶ月の特訓の時は、参加者全員が統合失調症系だったので、幻聴が伝染するのを体験した。ただ、主治医によると、「殺せ!」とかいう幻聴ではないので、問題にはならない、ということで、伝染しながら三ヶ月過ごした。

それにしても、就労の話が、どうもオレは分からない。オレは、やっと採用されても三ヶ月でクビになるし、もう、一生のお役目まで決まってしまっているので、毎日、死を覚悟して、お役目をやるしかない。特殊能力だからお布施が出ても良さそうなものであるが、そういうこともなく、そうでない方が精神衛生にはいいのかもしれない。

ただ、専門家とか、国家資格である訳でもないので、案件があっても、権限がない。お医者さんなら、治療契約があるから、患者は医師の指示を守る必要がある訳だが、オレは資格はないし、師匠はあちらの世界の存在なので、単に怪しいだけである。

それでも、オレの使い方が分かる人は何人かいて、使い方が分かる人には、お役に立っている様だが、所見と対処を具体的に伝えても、それを実行しない人だと、単に徒労になるだけで、不毛である。医療なら、問題患者となって、ウチでは扱えません、という話になる訳だが、治療契約がないと、単に関係が破綻するだけ、になってしまう。

結局は、本人が本当に救われたいと思っているか、そうでないかで決まってしまう要素がかなりある訳で、それは、医療の場合と変わりがない部分があると思う。これは、愚痴である。

きょうの講座のパネリストさんたちの話を聴いてみると、やはり、主治医が合っているかいないか、というのは、相当に将来を決める様である。きょうのパネリストさんたちは、幸い、その運があった人たちだった。そうでなかったら、閉鎖病棟も耐えられなかっただろうと思う。

優秀であることと、相性は、どうもまた別のものである様なので、これは相当に、運、だと思う。オレの場合もそうだ。

講座に出席してみて、オレの場合は、また、オレの場合だな、と思った。生きてみないと分からないのである。幸か不幸か、オレは、そんなに選択肢がないので、持っているものでやって行くだけである。ただ、持っているものは、伸びる様なので、あとは、発見する人が発見すればいいと思うのである。

病名は同じでも、生きる道は全く違うのである。