自己流のワークで、観照状態、自己喪失状態を再現する。~臨在体験を経て | 巡礼者のブログ

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 第九の季節 の続きを書こうと予定していたのだが、また、臨在、あるいは、観照のことを書いてみようと思う。

 何で予定を変更したかというと、オレ流のワークで、また簡単に観照状態、というか、自己喪失状態に入るので、その感じを書いてみたいと思ったのである。

 観照状態、と、自己喪失状態、ということがイコールであるかは分からない。ただ、今のところのオレには、常にそれがセットで体験される。ただ、あまり、一般的にオススメできるものではない、ということは、先に書いておきたい。

 ワークをやる気になったのは、また、セドナ・メソッドやリリース・テクニークの家元である、レスター・レヴェンソンのことを、「セドナプラス」というページで読んでいたのである。それで、ちょっとやる気になって、自己流のワークをしてみたのである。

 オレ流のワークの基礎というのは、セドナ・メソッド、と、筋反射テスト=キネシオロジーを組み合わせて、勝手に自己流のワークにしたものだ。セドナ・メソッドは、体験会に出たことがあるくらいで、筋反射テストについては、全くの自己流である。

 セドナ・メソッドなどでは、本などを見ると、感情を解放する、とか、抵抗を解放する、という話が多い。オレの場合は、感情が薄い、ということもあるが、価値観を解放する、というのがほとんどである。

 臨在体験以来、自己喪失という感じと、「在ること」「ただ在ること」「そのままで在ること」というのが繋がっている感じである。これは、普通の人にとっては、耐えられない状態かもしれない。どういうことか、というと、もう自分という根拠、とか、記憶、とか、意味、とかが、いっさいがっさい消滅してしまうからである。

 オレがそう勝手に感じているだけかもしれないが、先行く先輩が薦めてくださった「自己喪失の体験」という本を見ていると、どうも、オレの体験していること、というのは、この本の内容と重なることを否定できないのである。

 禅でいうところの「空」というヤツかもしれないが、オレが普段手にしたり眼にしたりしているものも、まるで~まるで、ではなく、そうなのだが、自分という記憶を発見できなくなるのである。だから、少なくとも、過去の体験や、今までの自己イメージというものを根拠にして生きておられる方には、おすすめできないのである。まさしく、「自己喪失」である。

 このところの、自己喪失感、というのは、日常を積み重ね、いわゆる現実との細いつながりを断つことをしないで、かりそめの現実を体験していた。だが、臨在体験を再体験することも必要なく、簡単なワーク一時間くらいで、また、あの自己喪失状態、あるいは、観照状態、あるいは、空?、という状態になってしまうことを確認したのである。

 簡単にいうと、あらゆる価値の崩壊状態である。それがいいのか、悪いのか、ということは、オレは知らない。だが、オレの自己展開からすると、当然の結果かもしれない。価値の崩壊、というのは、同時に、欲望の消失である。

 臨在、などという、オレとしては、まったく偶然の出来事を通じることも必要なく、観照状態、自己喪失状態、意味剥奪状態、欲望喪失状態、価値崩壊状態、に簡単になってしまうのである。

 一度、臨在体験の結果、それを体験しているから、再現は簡単だったのかもしれないが、こうも簡単に追体験できるとは思わなかった。いわゆる現実、的、に言えば、これは、存在の危機である。だが、オレは、それでよい、としている。それがいいことか、悪いことかは知らないが。

 結局、その感じをまた味わい、第九の本番もある、ということで、一応、タバコを細い現実とのつながりとすることにした。その時のタバコは、何か不思議な感じがするものである。

 ただ在る、ということが、こんなに簡単に実現してしまうのは、臨在体験あってのものだろうが、座ることもなく、瞑想することもなく、存在さんと、神との対話を通じて、観照状態、あるいは、自己喪失状態に入るのである。ただ、これが、お悟りの状態であるのか、オレは知らない。

 臨在状態で、からださんから、魂さんが抜ける、という状態は、いまのところおさまっているが、ただ在る、あるいは、そのまま在る、というのは、再現が可能なのである。

 尤も、オレの場合は、ある存在さん~それはハイアーセルフであった訳だが~との対話に始まり、あらゆる存在さんとの対話が可能となって、四年くらいが経過しているので、そういう期間、あるいは、準備があっての体験で、ただ、オレ流のワークをすればそうなる、というものではないと思う。準備期間、というのは、言い換えれば、安全弁なのである。

 セドナ・メソッドが、こういう状態を志向しているのかどうか、オレには分からない。ただ、レスター・レヴェンソンの言葉には共感するものがある。それに較べると、今、日本語訳で手に入るセドナ・メソッドの本というのは、あくまで「手順書」であって、存在の本質を語るものではないと思う。だからこそ、ネット上にある、レスターの言葉は、オレにとっては、重要なものだ。手順、ではなく、本質、はレスターの言葉の中にある。

 ただ、臨在、という話でいうと、レスターの体験も、オレの体験からすれば、もちろん臨在体験である。今回の、観照状態に入る、というのは、臨在体験のエクスタシーもなければ、本当に、ただ在る、だけである。レスターは、何度もその臨在体験を繰り返しているのである。

 オレはしばらく、レスターの言葉を繰り返し読むことになりそうだが、レスターの作業の本質、とは、全てを愛に変える、ということなのではないか、と、今のところ感じている。愛が分からない、と言っているオレが、臨在体験を通じて、少し分かる様になった、というのは、進歩だと思っている。

 時間にて、これにて失礼。