たしなみか、残酷な関係か | 巡礼者のブログ

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 禁煙の話の続きとなる様な話である。

 きょうの喫煙報告としては、朝に、サンプルでもらった紙巻きのマイルド・セブン06、というのを吸った。そして、家に帰ってきてからは、これは、葉巻だが、モンテクリスト、という銘柄を吸った。

 愛煙家の人には、「バカか」と言われそうだが、そうだったのである。

 紙巻きのマイルド・セブン06、というのは、少しお洒落にしようとしてか、手巻きくらいの細いヤツである。どこが旨いのか、どこに満足を求めたらいいのか分らない銘柄であった。

 モンテクリストは、月の吸い納め、というか、ひょっとすると、もうこんなものを吸うことはもうないのかもしれない、という気持ちで吸った。友人の差し入れが、ヒュミドール(保湿器)に入っていたのを思い出して吸ってみた。葉巻の場合は、保湿が必要なのである。

 さて、これで、来月煙草を買うかどうか、まだ決めていない。懐の都合で、禁煙したい、という向きは多い。自分も半分はそういう理由がある。


 昔は、たしなみ、という言葉があった。たしなみで、煙草を吸う、という人もいただろうし、お酒を呑む、という人もいただろう。味や香りの違いくらいは、話題にできる、そんな層が、たしなみ、たしなむ人だったのではないか。

 だが、今の時代は、いきなり禁煙とか、禁酒ということが頭に浮かぶ場合が多いのではないか。

 そんなに白黒つけなければいけないのか。依存症、という言葉は確かにあり、大きな問題であるのも確かだが、たしなむ、という在り方を知らぬために、依存症になってしまう場合というのがあるのではないか。

 ちなみに、依存症であるが、名の知られた依存には、アル中があるし、喫煙もそうであろう。中には、ヤク中、というものもある。


 だが、依存症を考えるときに、依存症は、どんなものにでも、どんな関係に於いても、依存症になり得る、ということを知っておいた方がいいと思う。


 自分がたまたまお店で見て、知っている残酷な依存症としては、幼児の「お醤油依存」らしきものを発見したものである。

 そば屋さんだったのだが、子連れの女性がいた。もの凄く不機嫌そうな顔をしていた。そして、子供が激しく泣くのを不快そうに、そして、世間の目をはばかる様な表情をしていた。

 その時、その幼児が、「おしょうゆ!おしょうゆ!」と激しく泣き叫ぶのである。自分はその時、その意味をはっきり読み取れた。

 つまり、この幼児は、母親が不機嫌そう、自分が泣くとき、親が世間の目をはばかる時の、最終兵器として、「お醤油」と言っているのである。おそばにお醤油をかけて欲しい。そうすれば、自分も安心できる、という意味である。

 おそばにお醤油をかけてもらえれば、それが、その子の呪文になるのである。

 何のことか、全く分らない人は、分らないと思う。だが、この一杯を呑めば、この一本を吸えば、自分がどんなに楽になるか、という体験をしている人なら、この子供の気持ちは分るかもしれない。


 お醤油、は、自分の感情、母親の態度、母親が気にする世間の目の、すべてを解決する呪術なのである。少なくとも、この子供にとっては。

 そんな経験から、自分は、依存症というのは、幼児にもあるのだと思わざるを得ない。


 依存症になる前に、バランスのいい状態、関係性が健康である状態を知っていれば、依存症になる確率は低くなるのではないか、と思うのである。どこまでが、楽しみなのか、知っていれば、その後の人生は違うのではないかと思う。

 つまり、自己や他者との関係をコントロールしようとせず、ありのままの時間を過ごす、ということが、たしなみ、という在り方によって、可能になるのではないか、ということを思うのである。


 世間のアル中、喫煙に対する態度は厳しい。特に、今、喫煙者に対しては、急激に激しくなっているのではないか。自分が思うに、これは、広告会社の類が実験として行っている、大衆のコントロールなのだと思うが。

 依存症は、関係性の問題である。もちろん、自己や他者との関係に於いてである。喫煙者の側だけではなく、喫煙が悪、喫煙者は悪、と思い込まさせれている側は、他者を攻撃する、という依存症にはまりつつあるのではないか。

 その標的が毎回、広告会社の類の実験の方針によって変わるだけのことである、と、自分は見る。

 そんな訳で、煙草に対する依存症も存在するが、見逃してはならないのは、喫煙者に対する攻撃・レッテル貼りをするという依存症になっている人たちがいるのではないか、ということである。

 おしょうゆ!と叫ぶ幼児の場合は、母親との関係性、世間との関係性、自分との関係性のすべてに於いて、このおしょうゆ、が万能の儀式であると、感じていたのではないか。

 依存症の人は、他にも知っているが、この幼い子供の姿には、残酷さを感じた。

 せめて、母親は、かけそばに、お醤油を一滴入れてやれば良かったのに、と思う。

 とうとうこの母子は、おそばに口をつけることなく、お店を去ってしまった。

 この場面の観察は、オレの妄想だろうか?