戦国武将とお酒 | 禁煙請負人・豊前健介の煙草・麻薬・お酒の話

戦国武将とお酒

年末年始は何かと酒席が増える機会でもあります。酒に酔うと人の本性が出ると言いますが、あながち眉唾ではないようです。主な戦国武将と、酔った時の症状を書いてみました。


織田信長・酒は好きなものの、あまり強いとは言えず酒乱の気がありました。特に下戸の明智光秀が不味そうに酒を呑んでいるのを見て、光秀の盃に脇差を入れて「酒を呑むか?これを呑むか?」と脅したそうです。信長は革新的な人間であると同時に非情なサディストで、また日本史上類を見ない「殺人鬼」でもありました。叡山焼討・伊勢長島一向一揆虐殺・伊賀滅亡など、戦闘と全く関係の無い女性や子供も容赦なく殺害したと言います。

有名な話で朝倉義景と、浅井久政・浅井長政親子の頭蓋骨(はくだみ)に金箔を塗って、酒の肴にしたと言う話がありますが、これはどうやら江戸時代の創作のようで信憑性に欠けますが、信長のサディストを現すエピソードとして有名です。


羽柴秀吉:秀吉は酔うとかなり陽気になり、金銀財宝を大盤振る舞いしたり、配下が酒飲みと分かると好意的に接して、一緒に飲んでいたと言う話があります。一方で彼が一人酒を呑んだ記録はほとんど無く、酒席は大宴会状態だったので「結構寂しがり屋」な一面が見れます。そのいい例が、臨終間際まで嫡男の「秀頼の心配」をして63年の生涯を閉じますが、明るく振舞っているようで、実はネクラなタイプ。昔ジャイアンツにいた中畑清も、同様な性格だったようで、彼の明るさはファンサービスと自分がネクラな性格を隠すために、無理して明るく振舞っていたそうです。


徳川家康:彼は結構いける口でしたが、程ほどにして大酒に溺れる事はありませんでした。その一方で、かなりの薬マニアで自ら薬を調合したり、酒も薬の一種として扱っていたようです。彼が現代にいたら、どう言う同業者(薬剤師)になるか、薬剤師の僕には非常に気になります。


毛利元就:彼も家康に似たタイプで、結構いける口ですが、父や祖父が飲酒で早世した事が原因で、わざと下戸のフリをしていたそうです。彼は謀略のプロですが、この飲酒をしないフリ=味方も欺くと言う彼らしい性格です。

彼は城中・城下に酒や饅頭を多数置き、家臣や領民に振舞ったそうですが、酒が好きなものには酒の尊さを。饅頭が好きなものには甘みの尊さを説いて聞かせたそうです。その甲斐あって彼の最後の子供はなんと71歳の時に誕生しており、養生とは実にいい事だと思います。


長宗我部元親:彼の領国・土佐は飲酒率が現在も日本一で、彼も大の大酒のみでした。しかし、酒が元で家臣の統制が乱れたから「禁酒例」を出すものの、自ら隠れて酒を呑んでいる所が家臣にバレてしまって、禁酒例はアッサリ廃止されました。酔い方は定かではないものの、相当の酒好きだったのは確かです。この遺伝子は、土佐の人間にシッカリ受け継がれており、坂本竜馬も酒好きだったのは言うまでも無く有名です。


上杉謙信:彼は無類の大酒のみで、丼に酒を注いで呑んで馬に乗っていたのだから、現在で言う「飲酒運転常習犯」です。彼は秀吉と違い孤独を好み、ワンマンで感受性の強い性格だったので、酒に溺れました。ただ、感受性の強い性格を現すエピソードに、ライバル・信玄の領国の甲斐が塩止めを喰らった際に塩を送った話や、信玄が亡くなった時に、涙を流して悲しみ家臣たちに3日間の喪に臥せるように命令した話があります。

彼の酒の肴は梅干で梅干は塩分が強く、酒の肴には不適なものでした。その結果、彼は晩年アル中症状になり余計に孤独を愛し、また家臣からアル中病棟のような所に入れられた話もあります。

彼の最期は(新潟の人には申し訳ないのですが)トイレで大便をしている時に、力んだ拍子で脳溢血を起こして、数日後に亡くなったと言います。ちょうどこの時期は寒い時期でもあったので、お尻丸出しと言うのも命取りになりました。


ただ不思議な事に僕の大殿が主君と崇める武田信玄の飲酒の傾向は、大殿も知らないらしく、また焼酎王国・薩摩の島津氏の飲酒記録も分かっていません。この時代に焼酎は無かったはずですし、ただ島津氏で面白いエピソードは、当時から「歩く野菜」と称して黒豚を食べており、兵糧として黒豚数百匹~数千匹を戦場に連れて行ったという記録があります。この黒豚が現在の「かごしま黒豚」になる訳です。