井伊直弼と横浜
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武営さんが子供の頃から尊敬していたのは「井伊直弼」です!
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2020年に開催された神奈川県立歴史博物館で開催された
「掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜」展示図録を紹介します。
開港の町「横浜」で直弼はどのように記憶されていたのか、
非常に丹念に調べられています。
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維新以降、井伊直弼は
「勅許を待たずに条約を断行し、
安政の大獄で多くの尊攘派の人たちを処断し、桜田門外の変で暗殺された人物」
として負のイメージを纏っていました。
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彦根藩士たちの
井伊直弼の業績や歴史的位置づけを再評価する動きを見ると、
高松藩同様、並々ならぬ努力と辛抱の様子が見えてきます。
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銅像の建立に中心的に尽力したのは旧彦根藩士「相馬永胤」です。
(専修大学創立者)
相馬永胤は横浜正金銀行の頭取になった人物で、
明治14年に横浜裁判所判事になってから以降、
長く横浜に関わります。
相馬は明治15年3月に井伊家主催の宴席で130~140名の
参加者に「井伊直弼銅像建立事業」について初めて語ります。
同年10月、旧彦根藩士らが東京上野東照宮境内に銅像建設の願いを明治政府に出しますが太政官は許可しませんでした。
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明治16年11月、横浜不動山に銅像建立計画を移すと、
「藩閥政府の圧迫」を受けてとん挫。
次いで、根岸の日本競馬会社馬見届け脇(元根岸森林公園)に建立することを神奈川県に出願します。
神奈川県は国に意見を求め、
内務省は「識者の非難」を免れないと言う見解を示し、
最後は閣議に掛けられ、建立許可は却下されました。
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その後、しばらく顕彰活動は下火になりますが、
明治30年代末に再び動き始めます。
しかし、その頃神奈川県は周布知事で、長州藩出身者でした。
周布知事は建碑事業への理解を求める会合を欠席します。
(実際に建立された時の掃部山銅像除幕式も欠席します)
東京では銅像建立に反対する意見が根強く残っていたからです。
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結局、用意周到された銅像建立除幕式の当初の予定は延期され、
ようやく明治42年7月11日になって
井伊直弼の銅像の姿が掃部山に現れます!
(しかし、その式典には政府関係者は殆ど不参加で、
そのことを出席した大隈重信は大いに怒ったと新聞に報じられたと言われています。)
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木舎大久保忠直の記録「故井伊直弼朝臣銅像除幕式の記」には、
「場内立錐の地なく中学校高等女学校小学校生徒の整列するも見通せぬばかりに密集したり」と、
除幕式に大勢の人が詰めかけて銅像建立を祝ったことが記されています。
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その2カ月後、武営さんは横浜港から渡米実業団として、
アメリカに向け出航します。
アメリカではペリーやハリスの墓参りをしています。
武営さんはその時、千代姫の父、井伊直弼のことを想ったに違いありません![]()
「碑に 眼鏡ぬぐふや 初時雨」
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井伊直弼が開港し、港町として大きく発展した横浜を
165年経った今も、掃部山から見つめています~~~![]()