「時代」

唄  中島みゆき
作詞 中島みゆき
作曲 中島みゆき

今はこんなに悲しくて
涙も枯れはてて もう二度と笑顔には
なれそうもないけど

そんな時代もあったねと
いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれかわってめぐりあうよ

旅を続ける人々は
いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ 時代はめぐる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ

まわるまわるよ 時代はまわる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ


一昨日、NHKで特集されてました。
「SONGS」がアーティストではなく曲単位でプログラムを組むのは
他に記憶がないので、きっと異例のことなんだろうと思います。

伝説とは、それを語り継ぐ者の(悪意のない)脚色によって
一枚ずつ衣が重ねられ、十二単のように神々しさを増してゆくもの。
世界歌謡祭でグランプリを受賞していようがいまいが
「時代」という曲の40年後、つまり現代の評価は変わらなかったと思いますが
この曲の根っこがどこにあるのかについては、多くの愛好家によって
様々な憶測が飛んでいました。

一番有名なのが、脳溢血で倒れた父親に向けて
回復の祈りを込めて書き上げたものだというエピソード。
1975年5月、シンガーソングライターにとってプロへの登竜門と言われていた
第9回ポピュラーソングコンテスト、通称「ポプコン」に入賞した彼女は
同年9月に「アザミ嬢のララバイ」でデビューを果たすのですが
デビューシングル発売のわずか9日前に、当時まだ51歳の若さだった
父・眞一郎氏が脳溢血で倒れてしまいます。
11月開催予定の「世界歌謡祭」まで2ヶ月という時間の制約の中で
昏睡状態で眠り続ける父の枕元で書き上げたのが「時代」だという話。
祈りを込めたこの曲は「世界歌謡祭」で見事グランプリを獲得しますが
肝心の眞一郎氏には届かず、翌1976年1月にお亡くなりになってしまいます。
これは長年追い続けているみゆきフリークならば
認知度80%はあろうかというほど有名な話です。

しかし、当初は大筋において認めていた彼女が、その後になって否定するコメント
(あの時まだ父はピンピンしてましたよ)を発表し
「あれは都市伝説だったのだ」という結末に着地したはずでした。
当時のシンガーソングライターとはフォークシンガーとほぼイコールであり
フォークの基本は日記公開(作者の実体験)であった時代ですから
悲劇と名曲を繋ぐエピソードが真実味を帯びてしまったのだろうという風に解釈され
「それ、良く聞く話だけど実際は違うらしいよ」が定説として書き替えられたのです。

しかし、一昨日の「SONGS」でこんなナレーションが入りました。

ー この曲を最初に聴かせたのは父親でした ー

その一瞬以外に番組中で父親について語られた部分はありませんでしたが
ナレーションを聴いた時に、私は確信したのです。
やはり「時代」は、最愛の父の回復を祈願した歌だったのだと。

中島みゆきは、歌の背景について
製作者自らがあれこれ説明するような無粋な真似を良しとしません。
扱うテーマが深刻であればあるほど口を噤みます。
単一方向からの解釈で固まりがちな聴き手から
「歌を自由にしてあげたい」と始めたのが「夜会」であるように
彼女の歌は、いかなる解釈もウェルカムだと述べています。
曲を聴いて「こう感じた」ことが正解なのか間違っているのか
そんな心配は私の曲に関しては無用です、と。

ここからは完全な憶測ですが、いくら天才と言えども
デビュー間もない23歳で父親を失ったばかりの彼女には
聴き手のことまで考えた発言をすることは難しく
素直に心情を吐露したところ、「時代」という曲のイメージが
今は亡き父に捧げる歌として定着してしまった。
充分なキャリアを積んだ彼女は、若気の至りとして冗談めかしに否定し
遅まきながら「時代」を聴き手から解放したのでしょう。
それからさらに20年が経ち、幾人ものアーティストにカバーされながら
普遍性を持った名曲として認知された頃合いを見計らって
「実は最初に聴かせたのは父なのよ」(やっぱり父のことなの、ごめんね・笑)と
そっと小声で彼女が教えてくれたような、そんな気がしました。
いつも小出しにしかヒントをくれない、彼女らしい奥ゆかしさではないでしょうか。