「五体不満足」でお馴染みの乙武洋匡さん。

「ハロウィンに何か仮装しますか?」
「ダルマかな、アハハ」

に代表されるような自虐ネタを頻繁に使うことで
世間の批判を交わしながら注目(同情)を集め続けるという
非常に高等なテクニックを駆使しておられる、大変に悪知恵の働くダルマさんです。
ご自身でダルマって書いてるんだから敬称つければ呼んでもいいですよね。
「障害をネタに出来る社会こそが真のバリアフリー」
(ダルマさんの公式ツイッターより)なんですから
少なくとも乙武さんに限定して言えば、堂々とダルマさんと呼んでいいはずです。

で、コメンテーターにレポーターに保育園経営にと、片岡鶴太郎も真っ青なレベルで
「もっと素敵になりたがる」(@ナンシー関)病を絶賛発症中の
このダルマさんが次に欲しがった冠が「役者」というわけです。
乙武さんに心酔する間抜けな賛同者からすれば
「やりたいことを何でも実現する乙武さん素敵!」ってことなんでしょうが
この映画「だいじょうぶ3組」ってのがまたえらく醜悪なシロモノでして
私なんて観ている間に三回ぐらい怒鳴りかけましたよ。
映画を見る前から「乙武って何か胡散臭いから嫌い」が
あったことも事実ですが、映画は私のちんけな予備嫌悪ごとき
鼻先でせせら笑うかのような、もう天晴とすら言える糞達磨っぷりなのでありました。
乙武さんに関しては、いわゆるアンチもかなりの数存在していて
過去の名言集など少し掘ればいくらでも出て来る状況ですから
外堀に関しては今回は割愛させていただいて
この映画の中だけで窺い知る事のできる乙武の独善的思考について
追っていきたいと思います。

まず「だいじょうぶ3組」ってどんな映画なの?と言いますと
三年間の教師経験を持っているダルマさんが
実体験をネタにして書いた同名小説を映画化したものです。
手も足もない先生が、実は誰よりも生徒のことを深く理解し
生徒から愛された素晴らしい先生だったのでしたという
もうこの段階で反吐が出そうなほど御都合主義大爆発な小説なわけですが
映画ではこの小説の主人公である赤尾先生をダルマさんご本人が演じておられます。
実体験をベースにした小説で、モデルになった主人公を本人が演じたら
それはただのドキュメンタリーだろと思うわけですが
でも原作は小説ですから、やっぱりこれは再現フィルムではないわけです。
小説を盾にして胡散臭い美談を盛りまくりつつ
本人が演じることでこの出来過ぎた物語にリアリティを持たせようとする。
「ダルマかな、アハハ」と言って自ら痛々しさを全開にすることで
世の中に蔓延る悪意を事前に摘み取ってしまわんとする巧妙な戦略が
この映画でもしっかり取られているわけですね。
でもこのやり方って「悪意が存在する」ことが前提ですから
乙武さんに対して何の感情も持っていない、どうでもいい派の人間には
何もしていないのに責められているような、不当な抗議を受けているような
胸くそ悪い思いを抱かせてしまうわけです。
今いるアンチの方々も、もとを辿ればどうでもいい派だったんじゃないですかね。
あくまでも私の想像ですけども。

話が逸れました。
でね、この映画がとても卑怯だなと思うのは、自分に都合の悪い部分を隠しながら
他者の批判だけはしっかりしてるとこなんです。
「熱中時代」から続く定番の自己紹介、黒板に自分の名前を書くことすらできない
手も足もないダルマ先生が、こんなにもすんなり受け入れられるものですかね。
それも生徒全員に。純度100%の善意をもって。
有り得ないでしょ。
もしこの植物園のように穏やかで従順な生徒達が
ダルマさんの見た光景とぴったり同じだとしたら
それはおそらく、ダルマさんの見ていないところで
たくさんの人達が問題の解決に動いてくれたからでしょう。
頭の固い他の先生達が自分の指導方針の邪魔をすることだけは
しっかり見えているのに、寝ている間に出来上がるレポートや
つつがなく進む学校行事に関しては、どこかに気の良い妖精さんでもいて
自分の代わりにやってくれてるんだろうとでも思っていそうな天然ぶり。
これでは「お前何もしてないじゃん」という突っ込みは避けられない。
だからこの映画では、頻繁にダルマさんの隠し芸を挿入してきます。
スプーン使ってカレーを上手に食べたり
日ペンの通信教育でも受けたのかと思うほど美文字で手紙を書いたり
階段をんしょんしょと上って見せたり
挙げ句にはサッカーまで!
すごいでしょ?こんなになるまでどれだけ努力したと思いますか?

だから、突っ込みはご容赦願います。

そう言われているようにしか見えない。
だって、カレーを上手に食べられたからと言って
チョークを使って黒板に文字を書くことすら出来ない
教師にとって致命的なハンデが相殺されるわけではないんですから。
ダルマさんがこの映画で本当に見せるべきだったのは
「できること」じゃなくて「できないこと」だったんじゃないですかね。
例えばトイレとか、三年間の学校生活の間はどうしてたんですか?
尿意や便意をもよおす度に、誰かの力を借りてたわけですよね?
普通の先生が出来ても自分には(介助なしには)出来ないことを
ひとつでも多く晒して、それでも懸命に教師であろうとする姿を見せる。
そうでなければ、こんな映画作る意味無いですよ。
暗部を一切描かなかったことで表向きはベタな良い話に着地したかに見えますが
私には「こんなに生徒から好かれて同僚からも認められてるのに
なんでたった三年で教師を辞めてしまったんだろう」って
そっちの方が気になりました。
きっと色々とあったんでしょうが、そこを触れる気はないってことですね。

まさか「飽きた」とも言えないし、なんてことないですよね。

まさかね。
無責任に「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返すだけで
上手く回っていくほど教師はお気楽な稼業じゃない。
だから、ものの三年ほどで逃げ出したんでしょう。
もしくは始めから教員経験者って肩書きを足がかりにして
次のフィールドに打って出るための布石にしか思っていなかったか。
最近のダルマさんの言動を見ていると後者にしか見えませんけども。

乙武さんを見ていると、何年か前にコナミスポーツに
入会を断られたぞオラーって言って大騒ぎしたパラリンピック出場者を思い出します。
差別しないで!と訴えながら特別待遇を要求する傲慢さ。
己ひとりが「やりたいこと」を実現するために
社会全体にどれだけの犠牲を強いることになるのか考えたこともないんでしょう。
障害者に寛容である社会は、障害者を神様のように崇め奉る社会じゃない。
ダルマさんみたいな特権階級意識を持った障害者が好き放題に動くことで
なるべく平穏に日々を過ごしたい多くの障害者が
多大な迷惑を被ってることに気付いてもない。
お手てつないで仲良くゴールなんて、今の指導は間違ってる!と激怒し
かけっこで1位を穫れるように猛特訓しておきながら
自分がサッカーに興じる時には、明らかに生徒達が手心を加えて
先生にゴールさせ「先生凄い!」と言っているのに満足げに笑う赤尾先生。
教師としての資格なんて、あなたにはこれっぽっちもないですよ。

ダルマさん、金子みすゞの詩集を使って授業してましたよね。
「みんなちがって、みんないい」って。
その精神を正しく理解していれば、そもそも教師になりたいなんて
思わなかったんじゃないんですか?
今の体で誰の力も借りずに出来る仕事をしようって。

映画「だいじょうぶ3組」は、乙武洋匡という人間がいかに周囲から甘やかされて
「ダルマかな、アハハ」と笑うタフネスを身につけるまでに至ったのか。
類い稀なる強者の誕生の秘密に迫るドキュメンタリー映画としては良く出来てます。

つまり、とんでもなく不愉快でした。

【2013年5月20日追記】
だから言ったんですよ。この人は悪知恵の働くダルマだって。
乙武洋匡さんの傲慢なTweetが物議を醸し出す事態に

橋下徹の慰安婦発言然り、ダルマの傲慢ツイート然り
私からすれば起こって当然の今さらな話ばかりです。
私は二人とも、それこそメディアに持ち上げられていた頃から大嫌いでした。
嫌っている理由もまさに今叩かれている点に集約されているので
「橋下さんにはがっかりした」だの
「乙武さんってこんな人だったんだ」だの言ってる人達を見ると
「でも、あの人達の病状をここまでこじらせたのは
間違いなくあなた達の無自覚&無神経な応援が原因ですよ」と言って差し上げたい。
バカがバカを担ぎ上げて、支え切れなくなるほど膨張して
毒ガスがシューシュー噴き出したらワーッて逃げてるようにしか見えないんですもん。
それぐらいなら、こんな醜態晒した後にまだ擁護したり支持してる人達のほうが
単純に私とは見解の相違だなと割り切れるだけずっとマシです。

【2016年3月24日追記】

何も申し上げることはございません。
私からは唯一言でございます。

「だから言っただろ」

【2016年9月14日追記】

「ざまぁ」

しかし奥さんも人が悪いよねー。
なら何で一旦「許す」とか何とか言ったんだよと。
「私も悪かった」とかさ。
達磨に批判が集中するようにしおらしい態度をとって
ほとぼりが冷めた頃に離婚って周到過ぎて
よほど腹に据えかねてたのかなと思わずにいられません。
でも、逆境でも強く生き抜いてきた達磨さんだから
きっとこういうよね。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

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