小学校の6年間と中学校の3年間、
私はけっこう苛烈ないじめに遭っていました。
PTAに熱心で、学校の行事にも何かと首を突っ込んでいた
私の父親に対する「お前の親父ってうぜーよな」が発端でした。
幼稚園のすぐ前が小学校で、そのまた近くに中学校もあったので
クラス替えで顔ぶれが変わっても、すぐまた同じ状況に陥り、
その繰り返しで9年分のカレンダーがめくれられていきました。
改めて振り返ってみて、我ながら良く踏ん張ったなと思います。

いじめとは、加害者にとっては快楽を得るための手段ですから
理由など実はあってないようなものです。
全く無ければ作るだけ。
私の場合も、発端は父親でしたが次第に何でも燃料になっていきました。
一度火がついてしまえば、少々の水をかけたぐらいでは消えない
キャンプファイアーのように、時折現れる小さな助け舟すら
次々と業火に呑みまれてゆき、やがて、どれだけ目を凝らしても
船影は現れなくなりました。

これ以上誰にも迷惑をかけられない。

親には知られたくない。

親に相談することは諸刃の剣です。
一気に解決するか、さらに悪化させるかの二択しかありません。
親が派手に立ち回る家の子ほどターゲットにされ易いのは事実で、
親が直接いじめっ子の家に怒鳴り込んだり
学校に訴えかけたりすればするほど
より親の目に触れない、陰湿で狡猾な方法に形を変えていじめは継続します。
同学年でもうひとりいじめられていた子がまさにこのパターンでした。
私は、誰にも言わない決意を固めました。

心にかかった強烈な負荷は、小学生が押さえ込むには大き過ぎたのでしょう。
ある日、激しいチック症状が顔面に表れました。
良く乾いた薪のような、格好の燃料を得た彼等は嬉々としてこれを叩き
家に帰れば、チックの理由を知ろうともしない父親から
「飯が不味くなる」と言われる始末。
学校には行きたくない、家にも居場所がない状態が延々と続きました。

足りない脳みそで必死に考え、ようやく見つけ出した答えは

「逃げよう」

でした。
取り敢えず学校には行く。
途中で保健室にゆき、体調不良を訴える。
体温計を脇の下でこすり、37度を超えていれば成功。
真っ直ぐ家に帰っても叱られるだけなので
少し遠出をして夕方まで川辺で寝そべったり
ベランダから二階の自室に忍び込み、息をひそめて過ごしたりしました。

中学に入れば収まると思っていた私は
解放された気分で6年の卒業式を迎えましたが
大半がエスカレーター式に進学するため
変わったのは校舎と教師の顔ぶれだけで、いじめは続きました。
クラスの全員が「●●とはしゃべらない会」の会員証を持ち
体操着はトイレに流され
給食にはフケを入れられ
教科書は落書きまみれにされ
掃除の時間にはほうきで殴られ
全てのトイレを塞がれたために、大便を漏らしてしまったこともありました。
授業中に背中を待ち針で刺されるのは、もう日課のようなものでした。

そんな日が続いたある朝、同学年でいじめられていた子が
柔道場で首つり状態で見つかりました。
学校は騒然となりました。
何人もの親が学校に押し寄せ、職員室はまるでバーゲン会場のようでした。
私は、彼の死を悼む一方で「これで状況が変わるのでは」と期待しました。
最低なことは承知していますが
首を吊る勇気も、立ち向かう勇気も持たない私は
彼の死が与える可能性に縋るしか無かったのです。
体育館に集められた私達の前で、校長先生が「悲しいお知らせ」として
彼が亡くなったことを告げ、クラスに戻ると
今度は担任の指導の下でいじめについて皆で考える時間が設けられました。
皆が神妙な面持ちで担任の話を聞いている間、
私の背中はずっと待ち針で刺されていました。
まるで「もうお前しか残ってないんだから覚悟しろよ」と言われているようでした。

私へのいじめが一向に減らなかった理由のひとつは
私が良く笑っていたからだと思います。
学校に向かう道の途中で、私はお調子者の仮面をかぶり
いつでもヘラヘラと笑っていました。
人前で泣くなんて耐えられない、というプライドだけを頼りに
辛い時ほど笑ってやり過ごそうとしました。
笑っては打ち砕かれ、笑っては踏みにじられているうちに
感情を制御する機能がイカれてしまったのでしょう。
ある日、椅子に座っていた私は突然立ち上がり
机の上に乗って奇声を発しました。
盛夏を彩る蝉のように、全身を振るわせて叫ぶ私に
なんだなんだとクラスがざわめき、担任に職員室へ呼びつけられました。
私はついに、自分がそれほど明るくない性格だということと
置かれている状況をなるべく詳細に、脚色もせずに説明しました。
担任からの返事はこうでした。

「なるほど、お前はピエロとでも言うわけか。
 でもな●●、自分の世界に酔ってるだけなんじゃないのか?
 中学生なんて悲劇の主人公になりたがる年頃だからな。ハッハッハッ」

私は、目の前の教師が無能なことよりも
こんな奴に胸の内を明かしてしまった自分を責めました。

あれから随分経ちましたが
小学校からも中学校からも、同窓会への誘いがあったことはありません。
あったことだけは風の噂で入ってきます。

高校は、なるべく遠くに行こうと決めていました。
自転車で片道40分ほどかかる通学は骨でしたが
その距離のおかげで、私の人生は一気に開花しました。
一緒にバカを言い合える友達との登下校がこんなにも楽しいものだったとは。
小中時代を知らない友人達に敢えて話す必要も無かったのですが
どこからか噂が入るぐらいならと、ある日、自分から友人達に告白しました。

「ふうん・・・で?
 そんなアホのやったことは忘れろ忘れろ。
 さ、帰りに●●でも寄ってく?」

大仰に受け止めず、さらっと聞き流してくれたことで
ようやく9年間の日々と決別することが出来たような気がしました。

恵まれた高校生活を過ごした私は、卒業後に親元を離れ
念願だったひとり暮らしを始めました。
水商売でアルバイトをし、二十歳そこそこで肝臓を壊しかけるほど酒を呑み
恋人ができて、セックスに明け暮れる日々を過ごしました。
それはまるで、無駄にした9年間を必死で取り戻しているかのようでした。
乾き切ったスポンジが勢いよく水分を吸収するかのように
歓楽街に首まで浸かっていた私に、可愛がってくれていたママが言いました。

「ねぇ、●●。
 あんたって実はイイトコの子なんだろ?
 私はひと目見て分かったよ。
 だから、いきなり『働かせてくれ』なんて志願してきたあんたを雇ったのさ。
 この子には荒療治が必要だって思ったからね。
 あんたはその育ちの良さが嫌で嫌で仕方ないんだろうけど
 この世界には死ぬほど努力して「イイトコの子」に見せたい子もいる。
 でも出来ない。
 育ちってのは、化粧や服装でごまかせる代物じゃないからね。
 だから、あんたはそろそろぬるま湯から上がらないといけない。
 泥んこ遊びはお終い。
 お日様の光が射す、外の世界で頑張んなさい。
 何かあればいつでも力になったげるから。
 ただし、時々顔は出しておくれね。寂しいからさ」

私は、何もかも見透かした上で
世間知らずの私を好きに泳がせてくれていた
ママの愛情に気付いてボロボロに泣き崩れました。
21歳の誕生日のことでした。
それから4年後に、ママは亡くなりました。
当時の従業員が店を引き継いで、店は今でも元気に営業中です。

最近、大津市の件に絡めて連日いじめに関する話題がテレビを賑わせています。
実際にいじめを経験した私からすれば
あんな辛い日々を誰もが耐えられるはずもないでしょうから
どうしても死にたいのであれば、その勇気があるのであれば
手段のひとつとして、頭の片隅にストックしておいても
いいんじゃないか、と思います。
だって、痛みを感じる度合いは千差万別ですから。
「死んだほうがマシな状況」を経験をしていない人間ほど
無責任に生を押し付けるものです。
中学の頃、「命の電話」にかけたことがありました。
「もう死にたい」と言った私に、電話口の向こうのお姉さんは言いました。

「いい?
 今あなたが死んだら、哀しむ人がいっぱいいるでしょう?
 ご両親とか、お友達とか、その人達を哀しませていいの?
 だから、ね?死んじゃだめよ」

父親や友人に絶望して死を望んでいるのに
その人達のことを思って踏み止まれとは一体何の冗談でしょうか?
生きていることが苦しいのに、他者を気遣う余裕などあるはずがない。
そんな簡単なことも分からない人間が
命の大切さを説き、迷える人々を救えると思っているのです。
馬鹿らしい。
あんなところに電話しても
「やっぱり誰にも分かってもらえない」と絶望が深くなるだけです。

冷たいようですが、大津市のことは彼が亡くなったことで
もう終わっているわけですから、あとは然るべき機関に任せるべきです。
今、ネット上では、「正義」の御旗の下に
加害者の特定や画像のバラ撒きが行われていますが
要は存分に誰かを叩く理由が欲しいだけで
その行動原理はいじめの加害者と同じ快楽であろうと思います。
亡くなったお子さんのご遺族か親しかった友人、
またはデヴィ夫人のように、どこの誰が発信しているのかを
明らかにした上で発言するなら分かります。
しかし、匿名性の高い掲示板を使って
誰かを血祭りに上げるやり方は、私は賛成できません。
繰り返しますが、それはいじめです。

このニュースがどれだけ大きく取り上げられても
日本中からいじめが無くなるわけではありません。
同じ中学の同じ学年で自殺者が出ても
変わらなかった私が言うんですから、間違いありません。
今私達にできることは、たまたまメディアに取り上げられた
誰かに肩入れして(または尻馬に乗って)騒ぎ立てることではなく
私達のすぐ身近にもいるであろう、いじめの被害者達に目を向け
手を差し伸べること。
即効性のない地味な作業ですが、
それこそが、日本の明日を変える唯一の方法と信じています。

「どこかのあなたへ」

明日のために種を撒こう
芽が出なかったら、また撒こう
喜びの種を 人はいくらでも生産できる

明日のために水をやろう
光の枝葉を無限に伸ばそう
喜びの花が 甘い香りで世界を酔わすまで