真田一族に見る「後悔しない生き方」をもたらす決断力 | 明日のあなたと握手する「決断力」

明日のあなたと握手する「決断力」

今日のあなたは、昨日までの決断でできています。
でも、今日の決断で明日からのあなたを創ることができます。
明日のあなたと握手するために、今日の決断を大切に。

 慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」は、ご存知ですね。
諸国の大名が東西両軍に分かれ、関ヶ原での激突もさることながら、全国各地で
戦いが繰り広げられました。
 
 徳川家康の東軍につくか。
石田三成が主導する西軍につくか。
諸大名は、それぞれに生き残りを賭けた決断を迫られました。
真田昌幸、信幸・信繁兄弟も、その例外ではありませんでした。

 昌幸、信幸、信繁の3人が真田家の行く末について語り合ったのは、下野の犬伏
というところでした。7月21日のことです。
徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かって進軍中であり、真田一族も部隊を率いて
信濃・上野から下野へと進んでいたのです。

 結果を先に述べると、長男・信幸は東軍に付き、そのまま軍を進めました。
昌幸と次男・信繁は西軍に付くことを決断し、信州・上田へと引き返します。
その後、下野・小山で東軍の軍議が行われ、信幸は徳川秀忠率いる第二軍の一員と
して、中山道から上田城へと向かうことになりました。

 表面的にみると、東西どちらが勝っても真田家が生き残るように東西に分かれた、
ということも考えられます。
でも、その後の3人の生き方を追うと、損得勘定や生き残りだけでは無い、
自分の生き方に後悔の無い決断をしたことがわかります。

 具体的には、どういう決断だったのか。
昌幸・・・西軍を勝たせる軍略を発揮する、真田家を大きくする
信幸・・・天下に太平をもたらすのは、徳川家康を置いて他にはいない!
信繁・・・父を支える、自分の武将としての能力を最大限に発揮する

 結局、東軍が勝利し、上田城の昌幸・信繁は紀州・九度山に蟄居の身となります。
一時は切腹を申し付けられる事態にもなりかけましたが、信幸と舅の本多忠勝の
懇願により、命だけは助けられました。

 昌幸・信繁が味わった、蟄居先での不自由な生活。
信幸(関ヶ原後に、父から譲り受けた「幸」の捨て、信之と改名)が味わった、
徳川幕府からの冷たい仕打ち。
苦労を重ねても、それぞれが東西両軍に分かれた決断を後悔することはありません
でした。

 信繁は、蟄居生活13年にして大坂城に入り、冬の陣で勇名を全国に轟かせ、
夏の陣で戦死しました。
信之は93歳の長寿を保ち、真田家が松代藩として生き残ることを見届けました。
昌幸は蟄居生活11年にして亡くなりますが、再び徳川・豊臣でいくさがあれば、
大坂城に駆けつけることを目論んでいたと言います。

 結果だけ見れば、東軍に味方して生き延びることが「正解」だったかもしれません。
でも、その「正解」は、幕府による「大名いじめ」とも言えるような普請の出費、
国替え、結婚や行動の束縛を耐えることが要求されました。
それでも信之は「太平の世を築く」という目的のために、父の葬儀が許可されない
などの仕打ちに耐えたのです。

 信繁も、戦を知らないくせにプライドだけが高く、牢人衆の意見を聞かない豊臣家
に殉じる姿勢を貫きました。
「大名に取り立てる」という勧誘があったにもかかわらず、なぜ徳川方に付かないのか?
「武将としての能力を最大限に発揮する」という価値観があったからこそです。

 「真田太平記」にも、後悔しながら生きた武将がたくさん登場します。
それは、自分の「価値観」を明確にしないまま、目先の損得や感情で行動した結果を
受け入れることができなかった生き方であることに気付きます。

 後悔しない人生を送るには、自分自身の「価値観」を明確にする
ことが第一歩です。
「価値観」は、人生の目的・目標を達成するための基盤なのです。

では、どのようにして「価値観」を知ることが出来るのか?
私は「7つの質問」で、あなたの価値観を明らかにいたします。
その結果、後悔しない人生を過ごすための決断力を高めることができるようになります。

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