私はそんなに何回も温泉街に行ったわけではない。
しかし、両側にお土産屋さんが並んでいるゆるい坂道とか、温泉まんじゅうのおいしそうな匂いとか、何よりも普通と違う空間にいるというドキドキが好きで、帰る時になるとちょっと名残惜しいかなと思ったりしたものだ。
夢の中でなぜか私の連れが、
「あたし、ここに住むことにした。」
と、次々にいなくなって、駅に着いたころには娘と二人だけになってしまった。
最初は誰と誰がいたのかと思いだそうとしても、夢の中ですでに思い出せなくなっていた。
だが、少なくとも6人はいたと思われるので、4人が途中下車したことになるのである。
一番最後に
「あたし、ここに住むことにした。」
と言ったのは母であった。
「冗談じゃないわよ。ここに住むったってどこに住むのよ。」
私はなぜか携帯電話で母と話していて、母は
「玄米食を食べさせてくれるお店があったじゃない。お土産屋さんで小さいサイズの靴下売ってたし。」
小さいサイズの靴下なんぞ店になければネットでも注文できる。と言いかけて母が注文した数々の失敗商品を思い出し、やっぱり手に取ってみるのが一番、などと変に納得しかかり、
「いや、いや。お土産屋さんって高いわよ。そんな基準で住むとこ決めてどうするの。」
「じゃあ、何があればいいのよ。ちゃんと足に合った靴下と、いつでも入れる温泉があれば他にいらないじゃないの。」
何たる説得力。
「じゃ、あたし自分で家見つけるから。」
「今どこにいるの?待って!電話切っちゃダメ。」
と、言っている間に電話は切れてしまい、おろおろする私を前に頼りの綱の娘は
「あたし、おなか痛い。」
「え、じゃあ、駅の待合室で休んでる?」
「うん、、、。」
と顔色が悪く、なんだか寒そう。
具合の悪い娘も気がかりだが、最近ボケが入っているんじゃないかと思う言い出したら聞かない母の様子のほうが気がかりで、やむなく娘を駅の待合室に置いて、母を探しに行く。
どこを探せばいいのだ。
玄米食を提供していた店は交差点の少し下だったような気がする。
しかし、この道はいつの間にこんなに大きな道になっていたのだ。
のんびりと浴衣で歩けるひなびた温泉街であったものが、車がどんどん通り過ぎる5差路のわかりにくい信号のある道になってしまっている。
振り向くとたった今坂道を降りてきたはずの駅ははるかに遠く、玄米食の店は、こんなに駅から離れていたっけか、と急に自信がなくなり、この5差路の交差点をどちらに進んでいいのか分からない。
どこをどう見ても、ここはもう温泉街などではなく、知らない都会の街角であった。
こんな町に母を置いて帰ってしまっていいわけがない。
連れて帰らねば。
私は5差路の交差点を運を天に任せて押し渡り、ここで間違えたら絶対もとにもどれなくなるのだという奇妙な確信で全身に汗をかきながら注意深くあたりを見まわし、玄米食の店を見つけた。
床が木のタイルを打ち込んで作られている。
一枚板の大きなテーブル。薪のストーブ。
これって私の好きな感じ、、、。
いやいやいや。そんなこと言っていられない。
さっきまで自動車がガンガン走っている交差点だったのに、店の前が石畳になっていて隣がお土産屋さんで、靴下が沢山並んでいる。
お土産屋さんで靴下、、。
ストッキングで来た人が履き替えるのか、、、。
かわいい模様の靴下いっぱいあるけど、私だったらこの無地のふんわり柔らかなウールの靴下なんか、、、。
いやいやいやいや、そんなこと言ってる場合じゃない。
ふかしたてのおまんじゅうの匂いがして、温泉独特の湿気のある空気が流れていて
「あ、あたしここに住もうかな。」
と、いつの間にか駅で休んでいたはずの娘が一緒に石畳の道を歩いていたのであった。