7月1日はスケオタ的謹賀新年ですね。
本年もよろしくお願いします。
 
7月4日(土)と7日(火)の映画館での氷艶ライブビューイングは、もうチケットとりましたか?すでにオンライン販売が始まっています。
近くの映画館で上映がある方は、是非、広いスクリーンと大音響で観てほしいです。コロナ対策もバッチリなので、密の心配はないと思います。わしも早速都内上映館でスクリーンが一番大きいところのチケットとりましたぜ。
 
 
手裏剣   手裏剣   手裏剣

今日は土台とは関係ないんですけど、こちらの話題を。
つい先日、二カ月ほど前のツイートが、また流れてきてていろいろと思い巡らしたことを書いておこうかなと。
 

 

これはバンクーバーオリンピックに遡る古い話で、すでにフィギュアファンなら周知の事実であり、特に今とりたてて話題にするものでもない。
ただ、改めてこの記事を読んで再認識したのは、ジャッジって他のジャッジに簡単に影響されるのか、ということ。「他のジャッジと比べて大きく離れた点数を出すと評価が下がる」「(インマン氏のメールを受けて)大会に集まったジャッジが腹を探り合う」とあるが、この時は天下のプルシェンコに関わることだからこうして裏のやり取りもニュースとして暴露されたけど、ということはつまり、暴露されないだけで、同様なことは他にも当たり前に行われていると考えるのが普通だよね。
 
例えば、特定の選手がいかに難しいことをしているか周りに吹聴し、一方で別の選手については、重箱の隅をつつきながら、結果大して難しいことやってないから評価は低くて当然云々というジャッジがいてもおかしくはない。そのジャッジが何らかの理由で影響力がある人物であれば、当然賛同者を得るのは難しくない事だろうし、結果その声は、他のジャッジが無視できないものとなる。
実際、上記記事のインマン氏の行いに対し、他のジャッジは非難することも、問題提起することもなく黙って受け入れたわけで、大なり小なり、似たようなことはそれまでも行われていたことを示唆する。
 
以前ブログで、こんな話を紹介したことがある。
放送大学の公開講座「フィギュアスケート 審判の目」という、日本フィギュアスケート連盟の元強化部長で、ISU公認審判員でもある吉岡信彦氏の講演会に行かれた方のレポ。
「ワールドなんかでご当地音楽を使うことついて。盛り上がりを期待してのことだろうが、逆効果のこともある。具体名は出なかったけど、フラメンコを使ったプロでそれっぽくて表現いいんじゃないという雰囲気だったが、たまたま入っていたスペイン人のジャッジが「あんなのは全然違う。自分はダンスもするから分かる」と試合後のミーティング(だったと思う)でダメ出ししたことがあったとか。ほー。(試合の点数には多分影響してない)」
これを知ったとき、この時の試合には影響していないかもしれないが、この場にいたジャッジは、それ以降の試合でその選手の評価を前よりも落とす可能性は高いと思った。時期的に、2015-16シーズンの、ハビエル・フェルナンデス選手のショートプログラムのことではないかと想像するが、彼のプログラムはアントニオ・ナハロの振付を見事に演じていて、表現としては非常に洗練されており、少なくとも音楽の解釈(Interpretation)は高く評価して然るべきではないかと私は思った。が、PCSにおける評価は、明らかに彼よりも単調で幼稚な音楽表現しかできていない選手より低くて納得がいかなかったことがある。
フラメンコの本場スペインのジャッジに、しかもダンスするから自分はわかると自信満々で言われたら、フラメンコのことをよく知りもしない、ダンスもたいして詳しくない他国のジャッジが影響されないわけがない。
 
また、別のエピソードだが、高橋大輔の2011-12シーズンのフリープログラムである「ブルース・フォー・クルック」について、ある日本人女性ジャッジが、音のリズムと演技がピッタリと合っていなかったので低く評価したところ(試合で、なのか、事前の講習会でかは不明)、他のジャッジから、ブルースの音の取り方としてはずらして表現することは間違っていないと諭された、とどこかで悪びれずに話をしていた、と聞いたことがある。
ファンなら誰もが知る失笑エピソードだが、これを知った当時、私は唖然とした。まず、この楽曲を競技プログラムに使用したのは彼が最初ではなく、過去に使用された楽曲であること、そして選手がどの楽曲をプログラムに使用するかはシーズン最初にわかっており、試合のエントリーでも当然明かされている。
つまり、このジャッジは、自分が詳しくないジャンルの音楽を事前に勉強することができたはずなのに、それをせずにジャッジとして試合に関わり、音楽の素人であるにも関わらず、PCSにおける「音楽の解釈」について細かく評価を下しているということに驚愕したのだ。もし、彼女に対して誰も彼女の無知を指摘していなかったら、彼女はブルース独特のリズムを知ることなく、タメというものを単なる音ズレとしてしか認識せずに、それこそ、ズレた点数を出し続けていたことになる。
 
これらのエピソードも別の見方をすると、音楽やダンスに疎いジャッジは、それに詳しいと周りが認めるような発言権の強いジャッジに、容易に影響されるということだ。
つまり、フィギュアスケートのジャッジは必ずしも音楽や身体表現に詳しいわけではなく、馴染みの薄いジャンルや表現に対しては、自分の偏った知識や、他のジャッジからの影響で簡単に点数を上下させているのだ。そう考えると、幼稚で単調な表現にもかかわらず、ジャッジが特定の選手に高い点数を出すことがあるのは、フィギュアスケートのジャッジ独特の、同調圧力が見事に作用しているからだろうし、その同調圧力を利用したのが、バンクーバーオリンピックでのインマン氏なのだろう。そしてそれは、今現在も続いていると考えるべきだ。
判断基準があいまいで個々のジャッジの裁量にゆだねられるプログラム・コンポーネンツ(PCS)について賛否両論がついてまわるのは、結局のところ、上記のエピソードから想像されるように、ジャッジの裁量が信用されていないからだと言える。
 
また、基準がより明確なはずのテクニカル・エレメンツについても、レベル判定されるスピンやステップについては、時々不可解な場合がある。
前出女性ジャッジが、ある選手のステップについて、試合でのレベル判定が低かった理由として、「上体の動きが全体の1/3、体幹バランスに影響を与えた動きをしていないため」とテレビで実際の演技を見てステップ部分の一つ一つの動きについて、その体幹バランスに影響を与えた点が少ないことを説明していた。彼女はプロのジャッジなので、それが正しい説明だと受け入れることにしよう。
ところが、その説明を踏まえて、最高レベルの判定を与えられた別の選手のステップを見ると、これのどこが「上体の動きが全体の1/3、体幹バランスに影響を与えた動きをしている」というのだろうか?と思える内容だった。なぜなら、ステップ全体の動きが終始とろく、エッジの傾斜もほとんど見受けられず、上体が動いていたところで、それが体幹バランスに影響を与えると思える部分はほんの一部だったからだ。つまり、このジャッジは、対象となる選手によって基準を変えているか、でなければ、体幹バランスという概念を勘違いしているか、あるいは表には出せない考慮すべき点があるかのどれかだ。

そもそもジャッジは、選手の演技の細かい難易度をどこまで正確に理解しているのだろうか、という疑問はぬぐえない。ジャンプであったり、スピンの回転速度のような、機械判定が可能な運動ならまだわかる。
仮に、上記コメントをしたのが、世界的に活躍した元トップ選手だったり、実際に演技を振付する有名振付師、あるいは実技的な指導をするトップコーチであれば、聞く側の印象も違ってくるかもしれない。つまり、「体幹バランス」という言葉を用いた人間が、どれほど運動理論を実体験として熟知しているのかによって、説得力が違うのだ。このジャッジの口から「体幹バランス」という言葉が出たとき、このジャッジは実際に選手の動きをやれるのだろうか、もしくは、やったことのない動きに対して難易度を判断できるほどの知識と経験を持っているのだろうか、と疑問に思った。自分が実際にやれない動きでも、圧倒的な実技の経験と、圧倒的な研究量によって正確な判断を下すことは可能だと思うが、このジャッジはそれだけの背景を持っているのだろうか。「音楽の解釈」について点数をつける立場にありながら、その事前の準備すらしなかったジャッジが、と思うのだ。
 
手裏剣
 
フィギュアスケートのジャッジはおいしい仕事ではない。報酬は少なく、多くはボランティアと聞いたことがある。ISUの国際ジャッジまでボランティアとは思わないが、その専門家にトップ選手が引退後なりたくなるほどの旨味はない。旨味のない仕事のために、必要な資格取得をし、自腹で毎年研修会に参加するのだから、よほどフィギュアスケートの審判という仕事が好きでなければ続けられないわけで、その点は尊敬に値する。
ただ、素人から見ても、公正なジャッジという観点からいうと、ジャッジ自身の能力の限界だったり、ジャッジングシステムの欠陥は感じるわけで、それが顕著に表れるのがPCSであったり、レベル判定だったり、技の加点だったりするのだ。

例えば、どう見ても動きの流れとしても身体表現としても美しくない、洗練されていないステップであるにも関わらず、マニュアルに従って分析した挙句、そのエレメンツに最高レベルの判定をつけたとしよう。特にそれがジャンプなどで高い点数をとれるような選手の場合、テクニカルの合計が自然と高くなるわけで、PCSの判断について確たる自信がないジャッジほど、全体の辻褄を合わせにいくはずだ。なぜなら、「他のジャッジと比べて大きく離れた点数を出すと評価が下がる」から。単独プレーは許されない、同調圧力。結果フィギュアスケート的判断によって、実際の演技全体の印象よりも高い評価が与えられることになる。
そして当然、その逆も起こりえるのだ。
 
上記女性ジャッジの解説を聞いていた時、スラスラと説明をする内容はマニュアルを読み上げるような、非常に細かいチェックポイントに終始して、演技全体が見えてないように感じた。
そういうルールブックに忠実に判定する人たちは、出来ればそれに徹してもらい、音楽の解釈や見のこなし、振付など個人の感性に委ねられる観点についてはジャッジ以外のプロに任せるべきではないだろうか、とも思う。プロというのは、振付師であったり、ダンスの専門家であったり、あるいは音楽家など。
いや、フィギュアスケートは芸術ではない、れっきとしたスポーツなのだからその必要はないというのなら、せめてショートプログラムは全員同じ内容の課題プログラムで統一するとか、あるいはショートを廃止してコンパルソリーを復活させればもっとスポーツとして矛盾の少ないものになるだろうに、とも思う。

まあ、アマチュア選手の人気投票イベントを大々的に行うような組織には、そもそも期待したところで何がどう変わるということもないだろうが。