アートと自然
Amebaでブログを始めよう!

気ばかり急いて進まない

愚痴ってばかりもいられない、とりあえず動けという話だが、

雨だから?情緒不安定week.


matakakenai!

ダブル・バインドな自然観

盆栽といった小型化と、原生林など森羅万象との2つに消費型が分かれている。


これを契機にはじめようとしたが、

どちらもが「描写」された、「イメージ」として消費している点で共通している。

形態の違いというよりは、そもそも「現実」と「描写、イメージ、シュミラークル」の2つのイメージで世界を捉えている、という方が重要ではないだろうか。


自然観の変化はメディアの発展に沿ってきた。


コンピューターノチョウシガワルクイッタンチュウダン

失恋もしたとこで

気を取り直し、持ち直し。

エリアソン画集の英訳をはじめる。


あと「自然」というキーワードをつかっているものの、何かしっくりこないのには理由があるはず。

目次案をもう1度立て直しながら、自分の核になっているものをもう1度みつめなおす。


プレゼンもひどかったなー。準備不足、考察不足があからさまに露呈。


このままでは終わらないぞ。

やっとこ更新

1ヶ月も滞ったまま。

おまけに、その間、ほぼ進行ゼロ状態。

知識の熟成期間であったと信じ、あしたのプレゼン準備に臨む。


折りしもこの期間中、就職活動をはじめ、無事に内定をいくつかもらえたので一安心。

地に足つけて研究するからね、と夜中に熱いメールを友人に送った手前、

がんばろう。

最悪な朝

きょうはゼミ初日。

更新も滞りぎみだったが、動いていなかったわけではない。

けど、まとまらない。

昨日になって、いざ企画書にまとめようといろいろ広げてしまったが最後、まとまりがつかなくなってしまった。

きょう、絶対プレゼンあるよな、最悪な状況でむかえなくてはならなくなった。


漠然とした思考に嫌気。

こんなことおもしろくないんじゃないか、

そしてそんなことしか思いつかない自分はおもしろくない人間だ・・・


というところまで落ち、うなされ、3時起き。

何やっているんだ。

今週の計画

・ジオラマ論、山水思想を読む

・ミニ盆栽、ガーデニングなどの本、雑誌をぱらぱら見る。

・盆栽ショップ?に出向く

・出会いを求めてを借りる



ラフ案

1:盆栽ブーム

禅、仏教ブームからか、そのちょっと前のジャポニズムブームの頃からか、
盆栽が若い人にも受け入れられ始めた。
海外でも「BONSAI」と親しまれているらしい。

そのなかで新たにうまれたのが「ミニ盆栽」である。
ちいさな場所にも置けて、お世話も簡単。値もはらないし、そしてなによりかわいい。
グリーンインテリアとして、ミニ盆栽は人気だ。

このミニ化は、かつて坪庭がうまれたように生活環境の変化によって適応した形なのだろうか。
ペットの小型化との共通性、
「癒し系」アイテムのひとつ。


ミニ盆栽は、私の印象では盆栽とは異なる楽しまれ方をしている。
四季のうつろいを楽しみ、ミニマルな形態に自然への眺望をしていた、山水思想の3次元化としての「盆栽」に対し、
ミニ盆栽は、管理が簡単なぶん、そこでの自然のふれあい、畏敬はどうしても薄れてしまうと思うし、
品種も改良されて、恒常的な緑も登場している。(これは盆栽ではないか。土のかわりにガラスやジェル状だったり、別に盆栽に限らなくてもいいかも?)

単なるビジュアルとして、「緑」がきれいとかで、植物を育てるためという印象とはやや異なるのだ。
自然環境を住居、日常にひきいれている、といった美学・役割とも違う。
※「借景」

内的な自己世界の構築のためのアイテムのひとつ、
所有できるージオラマの世界のように感じられる。


この傾向は、いま若い世代の作家の作品にも言える。
何だかやたらとホワイトキューブにあう作品が多いという印象がある。
最初は、展示といったらギャラリーで、とイメージしているといったシステム的な部分の表出だと思っていたが
若い世代が抱え表現する、箱庭的世界観とギャラリーの白い箱空間との相性が抜群によかったからだと考えるようになった。

2000年前後、やたらと白くて弱弱しい、フライジャルな作品が登場した。
展示も、「空き地」「低音火傷」「日本ゼロ年」と、虚無的な空気を察して銘打った展覧会がこぞって開催されていた。
最近は、相変わらずというか白いイメージは人気だが、それが表現するものも、漠然とした喪失感から、朦朧とした明るさへと変化した。
日常の礼賛
これらは、空白の美学として語られていた。


2:余白の戦略性

ここで、物質主義の蔓延から、「物質<もの>からの解放」として、余白の美学をたずさえて登場した70年代「もの派」を検証、比較する。
ちなみに、私たちの世代(00~と定義する)は、先生が「もの派」が教授をつとめていた時の生徒の世代だと思う。
自然の素材、ナチュラルな志向は大いに関連がありそう。


(もの派勉強はまだまだ進んでいないので、印象からの仮説)
もの派時代は、物質主義・消費社会の対立項としての「余白」だった。自然素材の利用もそう。
ものを扱いながら、余白を語る。

現在の世代
消費社会はすでに内在化されている。おまけにインターネット、バーチャル世界の登場でフィールドは圧倒的に広がった。
自己の存在は点のようにちいさい。
茫漠とした空間、「余白」のなかから、ちいさな「もの」を拾い積み上げていく。
余白と物質は対の関係ではない。余白内物質。


・李禹煥と杉戸洋の比較



※「ポストもの派」の位置づけもみておくこと


3:ミニチュア化、ジオラマ化

余白のなかの物質だから、ちいさいのではないか。
ちいさな破片を組み合わせていくスキルは、情報過多の世界の中で求められている。
整理したい欲求、
集めたい欲求---有限と知りうるから集める
片付けられない女たち
整理本、アーカイブ本は売れる


------------やれたらいいな、もしくは、今後台頭してくるかもしれない項目
4:余白側を緑に置き換えた、「太古の自然」

緑の消費傾向のもうひとつとして、太古の自然への傾倒がある。
サブカルチャーでも憧れが強い。宮崎駿。
青島千穂
近藤正勝


卒論心意気

「盆栽ブーム」からみる

余白、虚の戦略性

自然<緑>と美の関係性

 

この2つを軸として、どうまとめていくかまでの構成まではつめられないけれど

いよいよスタート!

 

禅や仏教ブームであるらしいけれど、この実践は難しいと思うし、ほんとうに日本人の「美学」なのかという疑問が私の中にはある。

 

隠遁生活まで選択できる人はごく限られているし、田舎暮らしも定員数があり、みんながみんなスローな生活を送ることは出来ない。

東洋精神に惹かれ、ヨガをやってリラックス、「癒されて」、よし、明日からばりばり仕事がんばるぞっ!というのにはどうも違和感がある。

東洋思想によって自我を磨く(消費しやすい感覚でいえば、自分さがし、自分を高める)という発想は、

資本主義をさらに強化させてしまうような関係になってはいないか。

精神的唯物論は、東洋思想の実践とはいえない。

ちょっと昔を持ち出せば、それで破綻してしまったものこそが、オウムではなかったか。

競争社会からの脱出を試みて、入信したけれど、中にはいってみれば、ステージを登る、という競争社会だった。

 

 

最近のドラマで格好の題材「負け犬」も、不幸と思われる要素、ネガティブなものを自ら自虐的に?宣言する処世術は、日本人らしい美学なのだろうか?

不景気になって、事態の打開が絶望的に難しくなったら、それをあえて楽しんでいこう、貧しさの美学も登場した。

こうした「虚の美学」自体は、否定するどころか実践できればいいなあ、と思う。

「人は、人。私は私。別にお金持ちでなくたって、私だけのちいさな幸せを見つけられればいいの」

といった、競争的エネルギーに振り回されない、中庸の安定した精神を手に入れたい。できれば。

でも、できない。

ものだっていっぱい欲しいし、旅行もしたい。できれば結婚して、私だけの仕事を手に入れて成功して「幸せ」になりたいぞーー!健康的な欲求だ。

これからは「ゆとり」が大事だ、といいながら、早々の教育方針転換も、

要は一時的な慰めにすぎず、みんな「勝ち組」になりたいんじゃないか、という欲望のあらわれではないか。

 

未来への不安で茫漠とした虚無感は、日本のなかではまだ蔓延しているように見受けられる。

いち「若者」の私も、未だ払拭できずにいる。

理想と現実とのあいだには、大きな「空白」が横たわっている。

 

そうしたなかでの、「虚の美学」としての仏教、禅ブームは

有耶無耶にしてしまうような、根本的な問題から目を反らすためのもののように思えるのだ。

インスタント悟りを手にしても、競争システムからは逃れられない。

 

 

美術のなかでも虚の概念は、いつも戦略的に使われてきた。

 

西欧列強に伍すために、岡倉天心は「虚」をうちだして、日本美術史をつくった。

70年代、戦後日本美術最大のムーブメントとなった「もの派」でも、虚の概念で語られている。

こうなってくると、虚じたいにも観念的な圧力を感じてきてしまう。

現在、アートマーケットの成立のためにも手をとりあっていこうとしている、中国、韓国、日本「東アジア美術」のなかに見受けられるものとして、ここでもいまだに「虚」が登場する。

なんか、、、ちょっと食傷気味。

 

 

とはいえ。

虚に対しては、抗いがたい魅力を感じている。

花鳥風月、つねに間接的に美を享受してきた日本人として育まれた感性なのかもしれない。

 

虚の美学を、今をいきる私のものに、ぐっと引き寄せたい。

空虚な身体を、ありのまま受け入れられるようになるのか、あるいは克服したい。

そうしたもと、卒論研究にとりくみます。宣誓。

 

 

 

ステーキばんざい!

煮詰まるわ、バイトで疲れるわで思考停止。

ああ、月曜日までに企画書を出さないといけないのに・・・

たぶん、こんな漠然としたところで悩んでいるのなんてそうそういないんだろうなあ。。


バイトがひと段落をむかえ、打ち上げ。

ひさびさにステーキを食べる!肉!!

オージービーフで体力増強。うまかったー

今日は遅くまで頑張ると心に誓い、まずは化粧を落とそう。

オノヨーコ

ケージ、フルクサスからはじまった松井さんの研究において、オノ・ヨーコは特別な存在だと思う。

観客導入型、日常というキーワードをもちこんだ。

確かに、私も好んで観賞してきた90年代アートは、フルクサスとの関連性が強く見られる。

ワタリウムでの小沢剛とのトークセッションでも、フリードマンやオロツコの祖として、オノ・ヨーコが登場してきた。


だが、私はあまりオノ・ヨーコの作品は好きになれないのだ。


確かに美しいと思う。

プレキシガラスの上に置かれた丸いガラス玉。そこにうつりこむ図像に月の満ち欠けをあてはめた<とがったもの>など、本当にかっこいい。

見えないものを暗示させる。言葉によって導入させる、物体と名称のズレのセンスだったり、

神秘的な輝きは心をひきつけ、どこまでも透き通る光の美しさは、魂を浄化させるというか、ふっと一段上の余裕ある心境に導いてくれる。


でも、その感覚がどうも苦手である。

宗教的なにおいが強い。今となっては、オノの表現もどこか啓蒙的に感じられてしまう。


松井さんが岡倉天心の虚の概念との関連で「オノさんなんかは観念的になりすぎて面白くないかもしれない」と言っていたが、まさにその通りである。


だが松井さんのオノからオロツコに至るまでの文脈には説得力がある。オノをもってくることが、1番批評の構築として分かりやすい、ベストな選択だと思わせる。

もっと松井さんにオノ・ヨーコの話を聞きたいと思っていたところ、出くわしたBT特集。

気になった部分を引用しておく。

---

美術手帖2003/11

松井みどり「アートの輝き、日常の糧」


・日常的な行為が、簡潔だが強い異化作用をもつ枠組みを通すことで、存在の意味を浮かび上がらせる。79


・作品は、日常こそが、人間や他人や物と触れ合い、自分自身や世界についての未知の真実に目覚める場であることを明らかにする。そして多くの作品に漂う穏やかな幸福感は、世界に棲むことの悦びを観客に実感させる。79


・観客を想像の主体とし、日常の事物との関係性を探るオノの作品は、芸術の目的を、技術や意志によって勝ち取られる「自律性」の外側に置く。

それは、アートを生の領域に向けて解放するための装置だともいえる。

そのようなアートにおいて、技術的習熟や作品の見世物的価値は、必要とされない。 80


・人を自己に囚われた実存の呵責なさから救い、その多元性に導くものとしての日常の「糧」と他者についての論

・レヴィナスは、実存を人称のない状態とみなす従来の実存主義哲学に対して、それを実存者の問題ととらえることで、生きることに内在する苦しみや希望を明らかにした。

・自分で在り続けることの逃れ難さや、何かを成し続けることへの要請が、人を倦怠させる。

・その倦怠から人を救い、人を自己の同一性の外で生かすーー何かに埋没するのでもなく、観念論のなかに世界を閉鎖するのでもなくーー要素が、レヴィナスによれば、2つある。


・そのひとつは、日常のなかで人が、さまざまなものと触れあい、それを感覚的に楽しみ知覚的に認証する営みとしての「糧」の「享受」だ。


・もうひとつが、自分を傷つけ、あるいは自分によって傷つけられる、予測不可能な存在、自分とは全く異質な存在である「他者」との出会いなのだ。 80


・花の匂いを嗅ぐ、散歩に出る、ということは、何かのためにするのではなく、花の匂いや新鮮な大気を求める欲求に従うことだ。そのような人間の欲求と目的に間にずれがなく、存在しながら自我の閉塞性の外にあることを人々に許すさまざまな物をレヴィナスは「糧」と読んでいる。食物はその典型的なものだ。

・「我々の世界における実存を特徴づけているのはまさしく糧である」と彼は言う。

・世界のなかで「存在に必要なあらゆるもの」と人が結ぶ関係こそが「享受」であるが、レヴィナスはその作用を光にたとえている。

・光は、対象を浮かび上がらせながら、それを「自分」から発する感情や理解のうちに結びつける。

・「享受」には「何かしら知的で明るいものがある」と言う。この享受と通して人は、世界の中に生きることの幸福を実感するのである。



・「他者」との関係は「糧」とのそれよりも、緊張をはらんでいる。

・他者とは(中略)外異者、敵、権力者となりうる存在