私が外出して帰ってくると、台所で誰かが吐いているではないか。そして、父のベットの横では母が横になっているではないか。老人が二人、具合が悪そうにしている。

 

とりあえず父が台所のシンクで吐いているので、父をベットに寝かせて母をのぞいてみると、母は眩暈がすると言って横になっていた。血圧を測ると、上が70台。ひょ!!?っと思って母をベットに寝かせて、リンゴジュースを二杯飲ませる。老人二人は日頃から水を飲まずにお茶ばかり飲んでいるので、脱水になりやすいのだ。

 

 母は降圧剤を毎朝飲んでいるのだが、「さっき薬を飲んだから血圧が下がっちゃったのかな」と。薬を飲む前の血圧はどのくらいだったの?と聞くと、測っていないという。きっと薬をのむ前から血圧は低めだったに違いない。そこで薬を飲んだから、一気に70台まで下がって眩暈がしたのであろう。勘弁して欲しいものだ。

 

 父はその日から吐くことが増え、味見程度に食べられていた細かく刻んだリンゴや、リンゴジュースも口にしなくなった。これがおそらく10月15日くらい。亡くなる二週間弱前。水も飲むのが辛くなってきたので、細かく砕いた氷を食べたい時に口に入れてあげるようになった。「喉は渇くんだよなー」と。姉が氷を準備すると、「あいつの氷はでかいんだよな」と言っていた。

 

 全く何も食べていないのに吐いてしまうある日の10月19日。朝起きたらまた吐いていた。

 友人看護師に相談すると、癌の影響で胃腸の通過障害が起きて、消化液が胃に貯留してしまっているのかもしれないので、オンコールの先生に電話をしてみてもいいかも。と助言をもらったので、何かあった時の時間外の電話番号に電話すると、すぐに先生が来てくれることになった。30分くらいで先生が来てくれた。

 

 この先生。おそらく整理整頓が苦手なタイプと見た。到着と同時にとても大きなカバン二つを持ち込み、バイタルサインを計測し、超音波でチェック。腸管が閉塞しているわけではないので、吐き気どめの点滴をしてもらうことになった。しかし、点滴の延長チューブが見つからない。こんなに大きなバックを二つも抱えて、あっちでガサゴソ。こっちでガサゴソ。整理整頓が大得意で、家のどこに何があるのかを正確に把握している寝たきりの父が、ギョロっと先生を見ている。私は心の中で、「お父さん、絶対今、先生が整頓できないこと人だと悟ったな。」と思った。

 私も整理整頓がとても苦手なタイプなので、整頓が大得意の父に良く怒られていた。たんすの中もぐちゃぐちゃ、なんならタンスから洋服がはみ出していることなんて日常茶飯事。「あんたのタンスとお母さんのタンスの中はそっくりだ。」と同じく整理整頓が苦手な母と二人で、よく嫌味を言われたりしていた。

 それにしても見つからない。先生が三つ目のバックを車から出してきた時点で、「私が点滴バックを持ってますので、延長チューブはいいですよ。」と伝え、なんとか点滴を始めることができた。

 

そして、最後に、胃管の提案をされた。胃管とは、鼻から胃に管を通して、胃に溜まったものをその管から出すもの。鼻に管を留置しないといけないため、患者さんによっては嫌だと思うと思う。私も父は絶対に嫌だというと思っていた。すると、父は、「やってみっか。」と言った。来てくれた先生も、「嫌ならすぐに抜去していいですから」と言ってくれた。
 

 父のすごいところは、まずはやってみるという姿勢。嫌ならやめればいいんだから。と、人生の最後もその姿勢を貫いた。

 

 この胃管が良かった。胃に溜まった消化液などは、胃管を通って外のバックに貯留されるため、吐かなくなった。鼻から出ている管もそんなに気にならないようだ。

 

 先生は1時間以上も我が家に滞在し、(そのうちの30分はものを探していた時間だったような気がする)丁寧に父の対応をしてくれて帰って行った。在宅医療の先生は、この先生と、父の主治医の先生と二人しか関わりがなかったが、二人ともとても穏やかで、患者の話をよく聞いてくれ、寄り添ってくれる素晴らしい先生方だった。父の最期を心ある素敵な先生に診ていただいたことは幸せなことだったと、今でも感じる。在宅医療を志す先生は、そういった心ある先生が多いのであろうか。

 

 このオンコールの先生が帰られたあと、父はぼそっと私に、「あの先生はお前みたいだな。(お前みたいに整理整頓ができないという意味)」といった。

 「そう言われると思ったよ。」と言い返す私であった。

帰国してから一週間強は父は自分のことは軽介助でできていた。

 

 相変わらず食べられなかったが、トイレも自分で杖をついてなんとか行ってたし、お風呂も衣服の着脱の介助を行えば、風呂場に設置してもらった手すりのおかげで一人で入ることができていた。外にも出られなくなってしまった父の、唯一の楽しみは風呂だったようだ。

 

 近所の姉が、面白いものをアマゾン注文してきた。ナースコールである。

 

 父のベットサイドや、風呂場にボタンを置いておくと、「ピンポンパンポン」とお知らせ音がなり、我らがいつでも助けが必要な時に駆けつけられるようになった。それまでは父は手を叩いたりして知らせていたが、ナースコールのおかげで2階で寝ていても安心になった。

 

 夜中は相変わらず母が隣で寝ていたのだが、たまに私が交代することがあった。夜中に例のナースコールで起きる。トイレに行きたいと言う。布団を足から退ける行為がすでにできなくなっていたため、布団を剥いでやり、ベットの高さを立ち上がりやすいように調節するのが私の役目。そうすると、父は自分のタイミングで杖をついて立ち上がり、足踏みをしたり、屈伸っぽいことをして、歩けることを確認してからトイレに向かう。トイレで用を済ませたあとは、ベットに戻ってきて横になるのだが、布団をかけることはできないようで、布団をかけるのは私の仕事であった。トイレに行く行事だけで1時間程度かかってしまう工程であった。

 

 しかし、父は自分で自分のタイミングで歩いてトイレに行きたいと希望していたため、私はそのトイレの過程は、起こして

ベットの高さを調整したらまた再度寝て、戻ってきたら起こしてねーってことにしておいた。父は自分のタイミングで色々とやりたがっていたので、そこは尊重した。

 

 帰国してから気づいたことであるが、父は笑わなくなっていた。どちらかというと怒ってばっかり。お風呂から出て、母と二人で乾燥肌の軟膏を塗ろうとすると、「そんなに大勢でかかられると俺が参っちまう」と怒鳴ってみたり。とにかく怒鳴られてばかりだった。一度、父が歩いて部屋に戻ろうとしていたので、道を塞がないようにと逸れたのだが、「そんなとこに突っ立ってんじゃねえ!!!」と怒られた。ただ立っていただけなのに。「あたしがどこに突っ立ってようと勝手でしょ!?大体お父さんはもうそんなに早く歩けないんだから、あんたが通る時はどくわよ!」とついついキレてしまった。他にも色々と父はこの頃は怒ってばかりで、母に対しても怒ってばかり。それをみていて情けなく、悲しくなった。死にゆく家族を看取りに帰ってきたのに、こんなに怒られてばかりで、私は何をやっているんだ。父は一体何様のつもりなんだ。と憤った。友人看護師には、今までなんでも自由にできていた人が、自分ができないことが増えるのは大変なストレスだよ。怒ることもよくあることだと教えてもらった。

 

 もう少し穏やかな気持ちで構えていられれば、いいのだが。。。。この時はとっても悲しくなったことを覚えている。

父はなんでも器用にこなすタイプの人間だった。そして働き者であった。何かを頼まれればすぐに取り掛かり、仕事は丁寧だった。

 

私は父が朝から寝っ転がってテレビを見ている姿は見たことがない。

 早朝に起きては、まず新聞を読む。外の気温、家の中の気温、湿度や天気などを日記に書く。朝の散歩に行き、朝ごはんは必ず7時に食べる。そのあとは畑仕事をしたり町内会の会議に出たり。

 

 町内会の環境委員は19年勤めて、市から表彰されたこともある。ゴミ捨て場はいつも綺麗に掃除し、カラスに荒らされないように工夫をしていた。老人会の会長も務めていた。老人会の誕生日会や季節の催し物などの企画なども行なっていた。周りが面倒臭いと思うことは父が引き受けていた。なので、定年して仕事に行かなくなった後も、毎日会議やらなんやら、忙しい爺さんだった。

 

 地域で花を飾って綺麗にしようということがあって、地域地域で花の苗を植えることになったそうだが、父の育てたパンジーがあまりにも見事に咲いていたため、ある日誰かに掘り返されて盗まれてしまったことがあったと、ご近所さんが話してくれた。父の武勇伝である。

 

 そうやって毎日忙しくしているので、ボケることもなかった。亡くなる直前まで記憶はクリアーだった。本来であれば、死の直前はわけわかんないことを言ったり叫んだりしてしまうことがあるそう。終末期せん妄とも呼ぶそうだが、それが父は全くなく、友人看護師は驚いていた。亡くなる三日ほど前に鍋をやろうということになり、カセットコンロのガスの替えがどこにあるかわからなかった時、流石にお父さんに聞いてもわからないだろうと思って買ってこようとしたら、姉が、「お父さんに限って災害時の備えにもなるガスを切らしてるはずがない。聞いてみよう」と息も絶え絶えな父のもとにいくと、父に、「ガス?あれば倉庫の二番目の棚に入ってるって言っただろう!?」とキレ気味に言われて、みんなで大笑いをした。こんな死の間際にカセットコンロのガスの場所を聞かれて、それを正確に答えることができる父がみょーに面白かった。

 

 母のようには料理はできないまでも、父は魚を焼く、味噌汁を作る、野菜を茹でる、炒めるなど一通りの料理はできた。父の作るチャーハンは野菜が細かく刻まれていて、美味しかったのを覚えている。亡くなる3ヶ月前に日本に帰国をしていた時に、朝ごはんに父が作ってくれた。最後のチャーハンである。「ちょっとしょっぱかったなあ」と言いながら二人で食べた。

 

 父はジャムも自分で手作りしていた。実家はホームベーカリーでパンを焼き、手作りジャムを塗って食べるのだが私の息子もそれが大好きで、日本に帰ると必ず朝ごはんは、パン一枚に爺さんいちごジャムをピシッと塗って食べていた。父は、「あいつは毎日、パン一枚にジャムをピシッと綺麗に塗って食べるんだよな。毎日同じだから楽でいいよな」とよく言っていた。

 何年か前に日本から帰った後、自宅でコストコの食パンを出したら息子が、「このパンおいしくない。爺さんのパンがいい。ママ、もうパンは買わなくていいよ」と言われて焦ったことがある。結局我が家は後日、日本でホームベーカリーの機械を購入して持って帰ってきた。ジャムも手作りするようになり、今は自宅で爺さんパンと爺さんジャムを楽しめるようになった。

 

 家の周りのことはなんでも父がやっていた。

 

 裁縫もできた。ズボンの裾上げから、座布団カバーなども自分で作っていた。何かが壊れればすぐに直してくれた。一家に一台欲しい、ハンディな男が父だった。