

多聞天、増長天と続いてきた四天王の制作も、
いよいよ三尊目に入りました。
まだまだ荒彫りの段階ではありますが、木の中に眠っていた輪郭が少しずつ姿を現し、
これからどのような表情になっていくのか、
私自身も楽しみにしながら手を進めています。
梅雨の季節は、工房の空気がどこかしっとりと落ち着き、
木の香りがいつもより濃く感じられる時期でもあります。
雨音が屋根を叩くたびに、外の世界が少し遠のいていくようで、
その静けさの中で刃を入れていると、木と向き合う時間がより深くなる気がします。
荒彫りは、仏像制作の中でも特に“勢い”と“判断”が求められる工程です。
大まかな形を決めるこの段階で、仏さまの佇まいの方向性がほぼ決まっていきます。
一度削り落とした木は戻らないため、迷いすぎてもいけないし、
かといって急ぎすぎても大切な線を見落としてしまいます。
その緊張感と静けさが、荒彫りの魅力でもあります。
多聞天、増長天と並べてみると、三尊が少しずつ揃っていく喜びがあります。
丁寧にゆっくりと進めて参ります。
今週は、各地の教室が続く一週間でした。
水曜の真光寺教室は、台風の接近により休講といたしました。
教室を始めて16年になりますが、「休講」という判断をしたのは今回が初めてです。
生徒さんの身の安全が何より大切ですので、迷わず決断しました。
昨日の本光寺教室は、気候も穏やかで、落ち着いた一日でした。
本光寺教室は畳のお部屋で、基本は机と座布団の席になりますが、
腰に不安のある方のために、高い椅子と机の席もご用意しています。
数は限られていますが、電車でいう“優先席”のような感覚で、
生徒さん同士が自然に気遣い合い、譲り合ってくださいます。
その姿に、いつも温かさを感じています。
真光寺教室は、高い椅子と高い机のお部屋。
喜光院教室は和室ですが、こちらも椅子をご用意しています。
それぞれの教室に、それぞれの空気と良さがあり、穏やかに続いています。
また次回も、どうぞよろしくお願いいたします。
教室の生徒さんから「仕上げがきれいにできません」と相談を受けることがある。
その理由は、多くの場合「刀跡が残ってしまうから」というものだ。
しかし、刀跡が残ることは決して悪いことではない。
むしろ、仏像彫刻においては“美しさそのもの”だと思っている。
サンドペーパーで表面を均一に整えると、一見なめらかに見える。
だがその代わりに、木の繊維は壊れ、細かな傷が無数に入る。
木が本来持つ呼吸や温度が薄く覆われ、どこか“平坦な表情”になり角のシャープなラインも丸く整えられてしまう。
そもそも、仏像が生まれた時代にはサンドペーパーという道具は存在しない。
千年以上、仏師たちは刃物だけで仕上げてきた。
刃物で仕上げるということは、木の繊維を壊さずに整えるということだ。
刃物が通った軌跡は、木の繊維を切り、整え、
そのまま“木の声”として表面に現れる。
この刃跡こそが、仏像に命を宿す。
刀跡が残ると、光の入り方が変わる。
刃物の角度によって生まれる細かな面が光を受け、静かに返す。
その揺らぎが、仏像の表情に深みと気配を与える。
サンドペーパーでは決して生まれない陰影だ。
「刀跡は、あなたが木と向き合った証です」
それは未熟さではなく、
木と刃物と自分の呼吸が重なった“痕跡”であり、
その痕跡こそが作品を美しくする。
木の声を消さず、刃物の軌跡を隠さず、
そのままの姿で形を迎えること。
それが、仏像彫刻の懐の深さだと思っている。
「雲竜」
不知火型は攻めの象徴、雲竜型は攻守の均衡を示す型。
横綱の二つの型に宿る意味を辿ると、
力と静けさのあいだにこそ本当の強さがあることに気づき、
均衡を求めて力士像を制作。
相撲の土俵入りは、ただの儀式ではない。
横綱がどの型を選ぶかは、その力士の生き方そのものを映し出す。
不知火型は両腕を大きく広げ、胸を張り、前へ出る姿勢が特徴。歴史的にも“攻めの型”として語られることが多く、
曙、朝青龍など、圧倒的な前進力を持つ横綱たちが選んできた。
一方、雲竜型は片手を腰に当て、もう片方の手を静かに前へ差し出す。右手は攻め、左手は守り。
陰と陽がひとつの身体に宿るような静けさと均衡の美しさがあり、貴乃花、稀勢の里、照ノ富士など、精神性の深い横綱たちが選んできた型でもある。
相撲協会が公式に「不知火=攻撃」「雲竜=均衡」と定義しているわけではないが、型の形や歴史、象徴性を踏まえると、この理解は文化的にも自然で、多くの相撲ファンに共有されている。
私はこの“均衡”に強く惹かれる。力だけではない。静けさだけでもない。その間にある、見えない緊張。
そこにこそ、最強の姿が宿ると思っている。今回の力士像を制作したときも、右手は攻め、左手は守り。陰と陽がひとつの身体に宿る姿を、木の中からそっと彫り起こすような感覚だった。
木を彫るということは、ただ形を作ることではない。木の声を聞き、刃物の動きを感じ、自分の呼吸と向き合う時間だと日々感じている。





