ビジネスからライフまで。

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仕事の追々で感じたこと、会った人などを徒然なるままに認めました。

ビジネスなどの社会情報 から未来を観ることは誰にでも出来る事ではありません。いくら勉強をしてもその能力には可否がある事をこれまでに学びました。ひとりでも多くの、特に明日の日本を受け継いて行く、若い方の御役に立つことができればと思います。尚 まぐまぐメルマガでは政治やビジネス界などの更にディープな社会情報をお届けしております。興味のある方は是非とも御覧下さい。

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「稚拙な日本の若者のリーダーシップ感」

 自分が若い時もそうだったのだろうかと、少々戸惑うのだが、それくらい日本の若者のリーダーシップ感覚は稚拙だ。これは同年代の”米”(日米と言うと日本とアメリカだが、ここでの米を外国人学生と定義します)のそれと比べると、かなり隔たりがある。先日も、日本の学生(結構名だたる有名大学)と、日本に旅行中の”米”の学生達の飲み会があり、私の他、数名がゲストの形で呼ばれたのだが、最初のテーマ採りの段階で、開きを感じた。

 日本の若者の出したテーマは、単純にテレビのニュースかワイドショーから抜き出したようなものばかりで、”トランプ問題”を出した学生の意見も、日本のメディアよろしく、あまりに浅くて、聞いていて恥ずかしくなったものだ。多少”米”の学生は緊張もしていたようだったが、彼らの出した”イスラエル問題”や”イスラム国問題”、”移民や難民問題”などは、その論調も深く、知識に裏付けられていて、ほとんどテレビのニュース番組の受け売りに終始していた日本の学生の出番などは、全くないように感じた。

 しかし、その対比が最も現れたのは、テーマが”リーダーシップ論”になった時だ。名誉挽回とでも思ったのか、やたら孫正義やホリエモン、スティーブジョブズなどITに関わる人たちを例に出して、単に絶賛する一方、”米”学生達は、そもそもリーダーとみる対象者のふり幅が広く、また事例も具体的で、必ずリーダーとしての長短所に触れるというおまけまでついていて、これも勝負にならない状態であった。唯一、愛知県出身の私学大学生A君だけが、全てのテーマについて、同等に議論していたのが救いで、それがなかったら、と思うと…。

 

 「情報が断面的で、不確か。それに対する考慮は浅い」

 日本の学生がこれほど浅い認識を持っているのは、そこに経験や知識が欠如しているのと、やはり接しているメディア情報のクオリティの低さが影響しているのか、まるで小学生のようにリーダーはかっこいいヒーロー的な発想となっている。先のA君と会のあと、話をしていると”今はこと情報に関していうと、学校は関係ないように思えます。ただ年配の方も同じようなものだと思いますが”という趣旨のことを言っていたが、それはそういう事なのだろうと、変に納得してしまった。

 畢竟は、日本全国のその種の”甘さ”や”浅さ”があるのだから、いったいこの国はどうなっているのかと憤慨しても、何か空しい。駅前の電気屋のテレビの前を通ったら、もう半年ほど続いている”安倍内閣批判と加計学園”についてのニュース解説が画面に出ていた。”こんな低俗なメディアしか持てない国民の宿痾かな”。字余りの川柳を口ずさんでも、唇寂し…で帰途についた。

 

 仕事で若い世代の方との関わりを持つことが多いのですが、彼らを見ていて閉口することのひとつに”ボタンダウンシャツ”があります。重要なオフィシャル上の仕事の打ち合わせの場に、これを着てきます。スーツや靴の選択についても、自分の好みを優先するきらいがありますが、しかしそう目くじらを立てるものではないかも知れないので、まあ許容範囲だと理解していますが、事がシャツに至るとうーんと唸るしかありません。

 

 私の世代では、ワイシャツとは下着なので当然肌着の上には付けるなと教えられてきました。しかし高温多湿の日本の夏では、吸汗性の下着をつけないと悲惨なことになります。最近ではスーツや襟の形に沿って、着ていても分かり難い下着も販売されているので、これはセーフだと思います。同様にボタンダウンシャツは作業用なので、オフィシャルなビジネスシーンでは着用すべきではないとも教わって来ました。これはネクタイも同様で、オフィシャルになればなるほど、小柄のドット以外は論外だとも言われたものです(大学のカラーのストライプは別ですが)。

 ボタンダウンシャツは隠しようがありません。何故彼らはこれを付けてくるのか。かなり親しくなった数名と砕けた席で、聞いたことがあります。基本的には彼らにそれを教える人がいない事が主な原因であることが分かりましたが、それでも「もう今は、そんな堅苦しい時代ではないのでは」という意見が大半なのには驚きました。彼らはビジネススーツは”自分のもの”だと考えているようです。

 

 なぜビジネスコードがあるかと言えば、その服装で一種の意思表示をするためです。堅苦しいかも知れませんが、私はあなたの為に、心を整えてビジネスに向かい合っています。この服装がその証拠です。そういう意味で、決して自己主張ではないのです。逆に相手に対して、私はこのビジネスに不満がありますということを示唆するときには、着崩します。まさにボタンダウンシャツはその代表的な行為です。

 

 いいじゃないか。若い人はそんなこと知らないのだからという意見もあるでしょう。しかし彼らがそれなりの地位に就けば、或いは海外で仕事をするようになれば、必ずついて回ることです。いくら時代が変わっても、若い方が本当に必要な契約を結んだり、信頼を得なければならない世代は、私のような世代であることは忘れてはならないと思います。

 現代はIT社会と言われていて、情報にもふり幅が出てきています。20~30年ほど前は多くの方が、新聞やテレビのニュースや解説を鵜呑みにしていて、その人の喋っている内容を聞くと”ああ昨日の○○を観ていたのだな”と分かるほどでした。要するに”知ったかぶり”というやつですが、滔々と時事解説をしている自分に対する一種のナルシズムは、真実を知るという地味な作業に勝ったのでしょう。常識的に報道に疑問を持ったり、戦後の米中のプロパガンダにとっぷり浸かったメディアの実態を知り、事実を知るには当時は、公文書を取り寄せたり、一つの問題についても左右で8対2の割合だという前提で書物を読み漁る必要があったので、その情報格差は開く一方だったのと同じレベルで、メディアのレベルも失墜するものと感じていました。

 

 現在の若者と話していると、かつてと比べても簡単に多くの情報を手に入れることができる社会にいながら、メディアを頭から信じて疑わない若者が多いのに驚かされます。いや逆に正しい情報を持ち、判断している数からすると、これまでの世代とは比較にならないほど多いのは分かるのですが、時代の背景からみると、今の時代にも関わらず、なぜ?とも思ってしまいます。

 

 先日の若者(20~30歳)との懇談会でも、「○○新聞にこう書かれていた」とか「○○氏がこう言っていた」と出自を明らかにするのならまだましですが、「これは○○だ。あなた知らないんですか」と浅薄な知識で攻撃姿勢を見せる人も多くみられて、すこし驚きではありました。実は多くの一般人(これは比較の話です)は、70歳を越えると新しい情報をインプットすることができなくなるのか、それが改革に繋がる物であったり、官僚の大本営発表のような発表があると、それにかじりつく傾向があるように思えるのですが、先の若者の場合も同様の傾向が顕著なのです。私は彼らと話をしていて、そんな70歳以上の方と話をしている錯覚に陥りました。

 

 若いうちは、自分が絶対正しいという変な自信があるもので、それがプラスに働けばよいのですが、知っておく必要があるのは、若者の自信などと言うのは、歳を重ねた大人から見ると、赤子の手をひねるほど簡単に変えられるものです。時間もあり、柔軟な考えがとれるうちにしっかり学び、社会に騙されないようにしてもらいたいものです。

  

 前回「何かでっかいことしたいな、という人は、すでに発想回路が閉ざされている」という内容のブログを書きました。これについて、お一人、かなり長文の御意見を頂戴しました。この方は大変礼儀正しく御自分の大学名から学部、簡単な生い立ちを書いてこられ、最初は就職希望なのかなと思いました(笑)が、そのあと、夢を持つ意義について、これまた滔々と書き込まれていました。要約すると、夢を持たないと、前進するエネルギーが生まれない、的な内容で、縦から読んでも、横から読んでも、それ以上の中身はないように思えました。

 大学名は私も知っている有名なところでしたので、私の前回の文章を読んで、そのような帰結になるような読書力ではないとは思ったので、もしかしたら”おちょくられている?”。そう思い、御意見の御礼がてら真意を確認したところ、ご本人は至って真面目に考えておられるようで、私の文章もしっかり”目を通した”と力説されておられました。

 スタッフに聞いてみると、今は読解力のない学生など当たり前にいますよとの返事。それにしても度が過ぎないかとの質問には、両極端なのだそうです。つまり、読解力に優れた人とそうでない人の差が激しいらしいのです。同じことを社会学の教授をしている友人に聞いたところ、読解力が落ちているのも多少あるが、今回の場合、自分が言いたいこと(アウトプット)があると、相手の話(インプット)が耳に入らない、或いは記憶に残らない現象は目立ってきているのだと言います。

 「ふーん」の世界ですね。こうなると。 まあ、確かに自分の言いたいことを言うのに、相手の意見を聞かない現象はありますが、それは今に始まったことでもなく…。しかし年齢に関係なく、それでは社会人が務まるのかとも思ってしまいます。

 

 

 

 関西の学生と30歳代で企業された方々約20名のセミナーを開催しました。20名くらいの規模ですのでそれほど広い会場の準備はしていませんでしたが、若いエネルギーが充満している雰囲気は彼らの可能性を感じました。しかし、セミナーで自由討論となってからは、その雰囲気は悪い方に変わってしまいました。それは、陰鬱になったり、自虐的になったりというわけではなく、むしろ夢や自分の持つプランを語り始めて起きた”現象”です。

 

 具体的には、かなり一面的な考え、換言すれば考えの浅いプランが続出しました。学生が社会全体の経験知が少ないのは止むを得ない点もありますが、どこかで聞いたようなストーリーにちょっと脚色したようなプランを滔々として語ります。かと思えば、30代の起業経験者は、如何にして助成金を手にするのが賢いか的なことをまた滔々と語ります。そして、企業が本来持たねばならない社会への貢献などは、どこかに行って、最後は「ああ、何かでっかいことしたいよなー」に同意します。

 少し意地悪ですが、「具体的に、でっかいことってどんなこと?」と向けても、オリジナリティーのある意見は皆無で、やたらビルゲイツやスティーブ・ジョブズ、アマゾンやGoogleを例に出す始末で、それは単にイチローや藤井聡太四段に憧れる小学生的発想に過ぎないのではと思います。その証左として、「何でもいいから、実現不可能なことで構わないから、架空のでかいことを言ってみよう」と向けると思考停止状態に陥ってしまいます。

 

 ”でかいこと”のスケールにもよりますが、これから社会に羽ばたく人達には、補助金や助成金をいかに上手く引っ張って来るかなどという発想は後回しにして、まずは社会環境に寄与できる事業とは何かを考えてもらいたい。そして、大きな事業は、キャッシュフローの持続や、顧客の利益、社会への貢献など、着実な業務の積み上げから、ある特定の環境下で偶然成し得るものであることを知ってもらいたいと思います。

 内容が固いのか、いやそもそも面白くないのでしょうが、あまりメッセージは頂く事がないのですが、先日のブログ記事を受けて「これから起業しようと考えていて参考になりました」という優しいお声を頂きました。ほかにも”起業道”のようなものがあるなら教えてと言う事でした。ありがとうございます。

 ”起業道”と仕事の基本とは全く違うものですので、どちらを希望されているのか、よろしければ教えて頂きたいのですが、先のブログを見てということでしたので、後者と判断して今回は記事を起こしました。

 

 私共は、企業支援やコーチングなどの事業もしているのですが、やはり信頼関係が築けていないと、いくら良いことを言っても、相手側に受け入れる”窓口”ができていません。そこで信頼関係の構築と言う事になるのですが、机に座って向かい合っていては中々前に進みませんので、何度か雑談することから入り、ちょっとしたお話しを繰り返して垣根を下げて頂くようにしています。そんな雑談の中から、仕事についての考え方のヒントをお話ししようと思います。

 

 例えば「ありがとうございました」とか「とんでもございません」。一概には言えませんが、普通はこう表現しますね。しかししかるべき水準の場所に行けば、まずこうは言いません。前者は「ありがとうございます」ですし、後者は「とんでもないことでございます」です。”いやそうは言うけど、世の中みんな使っていたらその言葉は間違いとは言えない”という声はあります。確かにそうですね。事実、NHKなどの国有放送ですら、言葉を作りますね。最近耳障りなのは「~だそうです」を「~だそう」で切ってしまう表現。でももしこれが何十年も続くとそれは間違いとは言えなくなるという主張。もっともです。

 

 先に”しかるべき水準”と言ったのはそこです。皆が誤使用かもしれない言葉を使っていたとしても、しかるべき水準のお客様を前提にすると、大変不快感を抱かれる方が少なくありません。そんな方はわざわざ注意はされません。いくら構えを立派にしても「ああ、ここはこのレベルだな」と考えられるのです。逆に構えがそうでなくても「ここは意外とレベルが高い」と判断される可能性も高く、逆にそのような場所は構えが古くても手が行き届いていると信頼に繋がります。事業をする場合、少なくとも低く評価されそうな要因があれば、それは排除する必要がありますし、個々の社員にこうした教育をする事は会社を構成する人(将棋の”歩”に例えられることが多いですが)を成長させる事にもなります。

 

 ある会社を新規の取引先の会長が訪ねたとき、まだ応接室に行くまでに”ここは良い会社”だと言われました。同行した社員がなぜかと問うと「うん 歩がしっかりしている」と答えたそうです。

 

夢・提言   豊かで輝かしい未来を創るために

誰でもが、ビジネスコンサルティング・レベルのスキルを活用できる“レライアンス”


 

 

 

 

 私の所に、若い起業希望者がよく来ます。よくある例ですが、彼らはエネルギーに溢れていますので、何でも可能なように見えるのですが、そんな時、最初に出すクイズがあります。それは「スナックなどの水商売の最大の”売り”はなんだと思いますか」という質問です。別にこれはひっかけでもないし、思わず膝を打つような高等問題でもありません。いわば単なる”心掛け”の確認のようなものです。これに対して5割以上が”女性の質”とか”女性の愛想”とか、要するにスナックは男性が女性を楽しみに来るというように答えます。あと2割は意味不明な答えになり、のこり3割がほぼ正解の”サービス”となります。”女性のサービス”という答えが間違いとすると、この3割が1割5分くらいになります。

 別にこの問題で正解することが重要ではありません。これは物事の本質を意識することの大切さを教える質問です。流行っているスナックには、女性客も多いですし、カップルでの利用も少なくありません。そのことが分かっていれば、来られる全てのお客様に、心落ち着くサービスを提供して、心満たして帰って頂くのが本質ですし、これは全ての仕事に言えること、ここまで分かってもらうための質問だったのです。

 スナックでトイレに行って出てくると、男性スタッフがおしぼりを持って待っていませんか? 注文をとりに来た男性スタッフが仁王立ちになったり、腰を屈めてますか? 絶対に片膝をついて、お客様が上から目線になるようにしていませんか。そう仕事に男女の別なくサービスを提供するというのは大切なファクターです。最近ではこの方法が自動車のディーラーなど、様々な企業でも取り入れられているようですが、重要なのは形ではなく、それを実現する心構えなのですね。

 

 

夢・提言   豊かで輝かしい未来を創るために

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 先日、中小企業の会長職を引退された方々と会食する機会がありました。いずれも中小企業の経営者を経験。その後後継者に恵まれ、自らは会長職となられましたが、いつまでも経営に影響を与えていては”老害”となると判断され、本人さん曰く「天下のプー太郎」となった共通点があります。みなさんは80歳を越えられていて、平均すると85歳となるのですが頭の回転は速く、声も大変大きく、とても魅力的でありました。

 面白いことに皆さんの人生観、社会観は大変よく似ておられ、それは座右の銘をお伺いした時に顕著でした。小売業や製造業など様々な業種であったにも関わらず、皆さん同様に、当たり前の事でしょうがお客様に対する感謝が考え方の基本となっているようです。思い出すままにお伺いした座右の銘を上げますと

「来る人も、来る人もまた福の神」

「頭低志商」

「福を纏いて訪れる客。去りゆく客は再来の福の神」

「朝に希望、昼に努力、夕に感謝」

「賢者は愚者にも学ぶが、愚者は賢者にも学ばない」…

印象とすると、お客様への感謝と、自らを律する強い姿勢を感じます。

 また、皆さん同様に言われることに、「今の経営者は自慢と慢心が過ぎる。人には厳しなければ、人は育たない。経営者はその意味で悪者になる気構えが必要だ。もちろんそうする限りは自らには、その何倍もの厳しさが必要だが」。これも誰もが頷いておられました。

 新入社員には、最初の3か月のうちにいろいろな”話”が必要とも言われていました。それは短く、簡単なものでよいらしいのですが、例えば「電話の呼び出しは何をしていても3回目のベルを鳴らすな」とか「お客様の事務所に行ったときは、いくら”おかけになってお待ちください”と言われても、相手様がこられるまで絶対に座るな」などというものです。この短い”話”とその蓄積が、社会人の基礎をつくるのだと言います。

 私は、いま考えても偉そうだったと反省しますが、「それって、ある意味常識的なことですね」と返しましたが、さすが器の大きな方々でしたので笑顔で「そう考える人が経営者にいなくなって、数字をこねくり回すだけが得意な輩がのさばっておる」と憂いておられました。

 そう言えば、私が子供自分、祖母は「滝つぼに金物を投げると竜がでてくるから、投げてはいけないよ」とか「墓場で怪我をすると一生消えない傷が残るよ」といっていました。要は滝つぼに金物を投げると、後で誰かが怪我をするとか、墓場では騒いではいけない、ということを伝える為の”話”なのでしょうが、それがいまだに残っています。

 祖母が孫の為を思った”話”。企業の指導する立場の人が若手社員の為の”話”。いずれも愛情がなければできないものと感じました。

 

 

夢・提言   豊かで輝かしい未来を創るために

誰でもが、ビジネスコンサルティング・レベルのスキルを活用できる“レライアンス”

 

 

 先週、奈良市議選が行われました。正直全国の単位でみると奈良市の市会議員選挙など、大して注目にも値しないと感じるでしょうが、しかしここでも有権者としても”あってはいけない”自体が起きました。これは本人が堂々と主張していることですから、ここで紹介しても問題はないでしょうが、最下位当選した松下幸治氏です。彼が総務省に届け出たのは”政治団体”の日本維新の会で、当時政党の維新の会は”おおさか維新の会”となっており、また政党と政治団体が同名を使うのには問題もなく(総務省)、今回もそれが適用されたので、有権者は松下氏を”政党・日本維新の会”と勘違いしたと言われてもやむを得ないというところでしょうか。

 しかし選挙ポスターを見ても、彼一人の政治団体であるにも関わらず”公認”と大きく印刷していたり、政治団体を左隅の、画鋲で隠しやすい場所に小さく表示していたりと”隠蔽工作”ともとれる工夫をしています。本人はちゃんとすべきことはしているし問題はないとの立場ですし、政党日本維新の会でも、「それを含めても民意」としていますのでこれ以上詰める必要はないのですが、問題は選管、総務省です。

 思い起こせば数年前”号泣議員”として全国に赤恥をさらした議員がいました。彼も同様に維新の威信を笠に着て、紛らわしい手段で当選していました。日頃、選挙については意識を高めてと宣伝している総務省や多額の税金を使っている選管については、現状の手続きに問題がないと逃げを打つのではなく、明らかに投票に対して、不利益を被る可能性のある有権者の情報提供の面で、管理して是正する責任があると思います。

 今回の松下幸治議員も向こう4年間助成金含めて、多額の税金が投入されます。それは勘違いで投票した有権者にも責任はあるでしょう。しかし何度も同様の誤魔化し当選だと疑われる可能性があるのならば、正しい選挙情報を提供する責任は無視できません。それが拡大解釈、或いは悪用されて、毎回メディアは、笊的な法の網の目を潜るような方法で進められているように見られますので、本当に是正してほしいものです。

 連日、ニュースのトップ辺りに、例の籠池、前川両氏の報道が取り上げられ、「行政が歪められた」とか「特別な配慮が働いた」とか騒がしいものです。しかもそこに「総理のお友達…」とわざと砕けた表現を使ったり、あえて世論調査で支持率が低下…など、とにかくネガティブ・キャンペーンも加えられています。

 以前のブログでもお話ししましたが、中には私のように、一点一点、取り敢えず検証(新聞やテレビニュース以外ですが)する方もいるでしょうが、本当に、籠池、前川両氏の話を”真実”だと思っている人なんているのでしょうか。今日付けの毎日・朝日の両紙ですら、あとで「お前たちは”真実”のように報道していたではないか」と言われるのを避ける為か、見出しにはネガティブ表現をしながら、記事の端っこに”多少の疑惑”を臭わせるという、逃げの常套手段をとっています。畢竟、鐘太鼓をジャンジャン鳴らしてレッテル貼りをしていれば、かつての年金問題のように、安倍内閣の足を引っ張れると思っているのだと思います。

 私の周りのスタッフなどに聞いても、誰一人として、この問題を安倍政権の不正などと考えている人はおらず、「籠池も前川もいわゆる”平気で嘘をついても、なんら恥を感じない人”と酷評しています。スタッフと言えば、今回の安倍内閣の支持率にしても、いくらなんでもまともな調査をしていたら、こんな結果にはならないと感じるようで、「ちょっと調べただけでも、二重質問や誘導質問、或いは集計方法が作為的で、数字の曲解や捏造と言われても仕方ない」と結論づけるスタッフもいます。

 メディアの人間は馬鹿ではないですが、所詮サラリーマンです。安倍憎しで凝り固まったかつての”椿事件”の主導者は、何の形も変えずにメディア界に君臨していて、それはあたかも東京都議会にいたと言われる”都議会のドン”が、”メディア界のドン”としてあるようなものなので、いちサラリーマンが逆らえるわけもなく、国民にはデメリットとしかならない、無意味な国会の空洞しか生み出しません。

 昼食時、食堂のテレビには、またしも籠池と前川の顔…。見たことないような解説者やタレントが、いかにも何か悪事が内包されているようなニュアンスのコメント。疑惑のある世論調査の結果、最後には安倍批判…。本当に信頼を落としているのは、誰か。気付かないのでしょうね。