願(がん)に生きているか? | 人生無明。ふらつく人生に涅槃はあるのか?  IT系なまぐさ坊主の懲りない日々

人生無明。ふらつく人生に涅槃はあるのか?  IT系なまぐさ坊主の懲りない日々

真宗大谷派寺院の副住職でありながらITを得意とする業務改善コンサルタント、善有(ぜんゆう)が「生きるとは何か?」という視点からビジネスを語ります。

vol.483

 

今日は

実家の寺院で

 

報恩講(ほうおんこう)

 

という

浄土真宗で

一番大事な法要を

執り行いました。

 

 

 

報恩講(ほうおんこう)とは ー

 

浄土真宗の宗祖(開祖)とされる親鸞(1173年 - 1262年) の祥月命日の前後に、宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要のこと。

 

 

親鸞の

祥月命日は

11月28日でして、

 

本山を始め多くの

真宗寺院では

11月後半に

行ったり、

 

そのほかのところでは

旧暦の1月に行ったり

します。

 

が、

なぜかうちのお寺は

同じ大谷派にも関わらず

2月後半にやっています・・・。ぼけー

 

まあ、

それはよしとして、

 

 

報恩講では

読経のお勤めは

もちろん、

 

説教師をお招きしての

法話があります。

 

これが浄土真宗では

一番のメインです。

 

今回の

法話のテーマは

 

「願(がん)に生きる」

 

願(がん)

というのは願(ねが)い

のことですが、

 

では、

誰の願いなのか。

 

普通は

人の願い

と思いそうですが、

 

浄土思想では

 

願(がん)

といえば、

 

阿弥陀如来の願い

 

なんです。

 

では

どういった願い

かというと、

 

大無量寿経に書かれています。

 

阿弥陀如来が

仏になるにあたって

四十八の願い

(四十八願:しじゅうはちがん)を

言ったのですが、

 

そのうちの

第十八番目の願

 

原文は難しいので、ここには

載せませんが、

 

かなり乱暴な意訳をすると、

 

「自分をお救いくださいと頼む

すべての人を私(阿弥陀如来)は

救います。そうしないと仏に

なりません」

 

という願いです。

 

ここでパラドックス的なんですが、

 

阿弥陀如来(仏)は

仏(ほとけ)になる前は

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)

という修行者でした。

 

その時にこの第十八願をたて、

 

そして仏になっています。

 

ということは、

この十八願は実際にかなっている

ということです。

 

これを信じるか信じないか。

 

信(しん)の問題になります。

 

もちろん、

浄土真宗の僧侶や門徒は

これを信じているから、

お念仏をするわけです。

(じつはお念仏も「する」もの

ではないのですが、その話しは

またにします)

 

最初の

「願(がん)に生きる」

に戻りますと、

 

つまり、

 

お念仏して生きる、

念仏者の生活

なんですね。

 

その前提として、

 

阿弥陀如来の願いを、

その存在を信じている

かどうか。

 

になります。

 

この

「信」

はどの宗教にも共通する

話だと思います。

 

神を信じるのか、

仏(如来)を信じるのか、

 

すべては

その人が救われる

ための方便なので、

 

何を信じてもいいのです。

(人を殺めたり、傷つけたりしなければ)

 

今回、

法話を聞いて、

 

では自分は真に

 

「願に生きているのか」

 

というと、

あーでもないこーでもないと不満

いいながら、

 

そして

自分の損得勘定ばかり気にしながら、

生活しているなぁと

 

つくづく思いました・・・。ショック

 

 

 

合掌

南無阿彌陀佛( -人 -)

 

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