この日本には、「自由」という言葉が大好きな者が多くいることだろう。
しかしこの「自由」なるものには、「責任」という言葉が必ずついて回ることを承知しなければならない。
先般、東京電力が事業者向けの電気料金値上げについて各事業主に通知を行った。
東京電力曰く、東京電力という事業者として料金設定は義務であり権利であると。
「料金」なるものは、マーケットがあって初めて成立するものだ。
ほぼ独占状態の産業の主で、高額な公的資金さえ分け与えられるこの時局の東京電力に、
事業者としての料金設定が義務であり権利などと、どの面が吼えるのかと言いたくなる。
「自由」に行動したければ、「責任」は常に付きまとう。
これは、「大人」と呼ばれる者の所作であり、「子供」と呼ばれる被保護者の所作ではない。
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先日ファミリーレストランで時間を過ごした。
多数の小さなお子さんを連れた母親達が後から入店し、1時間ほど私と同じ空間で共にすることになるわけだが、
子供達は食事が終わると、談笑に熱を帯びさせている母親達を尻目に店内を闊歩し始める。
時に走り回り、時にレジ横のおもちゃを座り込んで吟味し、時にかくれんぼをし・・・。
私以外の客達は、概ね自身が子供だった頃を思い出すことなく、不快感を露に醸し出していた。
1時間ほどして多数の小さなお子さんとその母親達は席を立つ。
そしてもちろんのこと、恐らく父親達が持つ能力で稼いだであろう資金で、母親達が会計を済ませ店を後にする。
残ったその空間は、あの騒ぎが嘘だったかのような静寂が辺りを支配する。
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逆説的だが、「自由」とは何らかの「制約」があってはじめて成立する。
無法図にも不文律が存在し、そして「責任」と「自由」が後からやってくる。
「自由」を履き違えた我々日本人は、「自由を謳歌する」などと、そのボロボロの羽を広げて平気で表現する。
結婚をしないまま、子供を作る自由。
あまつさえ、その子供を育てる精神力又は経済力がないからといって、吸殻のように捨てる自由。
外出することさえ億劫となり、生活そのものを放棄し、物理的にも精神的にも自身に閉じこもる自由。
卑屈になりきって、己の命さえ自らで断ち切ってしまう自由。
これら全てを合法でやりきっていける、この国の「自由」とはいったい何なんだろうか?
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明治時代初期、わが国にあった階級社会は制度上消えてなくなる。
その後、農民や商人などが権力を蓄えていく。
その最たる象徴は、西武グループの堤家である。
戦後の焼け野原をいい事に、宮家、華族の土地を買いに買い漁る。
たかだかの近江商人風情が、今や大企業なるステータスをその手中に収めた。
現在もこの企業が存立すること、
すなわちこの国の「自由」なるものの履き違え方が、現在にも大いに有効であると証明するところ大である。
農民階級や商人階級の権力保持謳歌が顕著に現れた終戦後、
この国は人間の価値判断さえも財布の中身や権威のみに委ねてしまう馬鹿な国へと成り果てた。
邨社会よろしく、そろばん勘定よろしくといったところなのだろうが、
「日本」という国のそもそもの伝統は、そのような下衆な風習を下に築き上げていったものではない。
「日本」に棲む「日本人」という道徳教育の根幹は、
邨社会のような卑怯を是とするものではなく、そろばん勘定のような打算を是とするところではないはずだ。
旧士族たちよ、立ち上がれ。
「侍」という言葉と行動が、この冬空の公園にひっそりと植わっているあの枯れ木のような存在とならないうちに。
毅然さと理性をこの国に取り戻し、あの騒ぎが嘘だったかのような静寂をこの国に取り戻そうではないか。