何故か

ヒューストンの和食レストランへ行って以来


シンガポール、ブキティマストリートの

うどん屋GARO

を思い出してしまい


頭の中には加藤和彦さんの【シンガプーラ】が流れている


懐かしのロックンロールが♪

かすれた音ラジオから  ♪♪

西東ぶつかって今奏でるハーモニー ♪♪♪


シンガプーラ ♪

  シンガプーラ ♪♪

    シンガプーラ  ♪♪♪


夜をかき消すように ♪

 青い月の光が   ♪♪

人生を忘れそうこのアジアの片隅で  ♪♪♪



結婚そうそう3か月間のダンナとの別居のすえ

シンガポールに到着したワタクシは

チャンギーエアポートにダンナの姿が無かった

ことを昨日のことのように覚えている


ダンナは仕事に夢中で

到着時間の2時間後にようやく時計を見て

ヤバイ!

と思ったらしい



ワタクシは未知の国の到着ロビーで

どうしようかと途方にくれながらダンナを待っていました

インド人に声をかけられたりして

不安にさいなまれていました

  {今思えば、とてもウブでした」



空港から自宅までのダンナが運転する車には

南国の夜の暑い風が肌にまとわりつくようで、

そして南国特有の果物の少しすえた匂いが

開け放たれら車窓から入ってきてた



南国の夜の湿った空気



シンガポールの夜はどこも

街灯が整備されていて明るい雰囲気だったのが救い

これがタイだとまたちょっと違うんだよね



それでも翌日からのワタクシは逞しかった

いきなりローカルのマーケットへ買い物へ

シンガポールは公用語が一応英語ということになっていて

その他、自民族の言葉も同時に公用語として認められていたので

中国語、マレー語、タミール語なんかも話されていたっけ




完全ローカルのマーケットでは

中国語の長州語か福建語が話されていた

主婦は逞しくなくちゃいけませんから

ワタクシはそこでお野菜お魚お肉などの買い物

最初に覚えた中国語が


タァウシャウシェン? = おいくら?


だった





ある日、そのマーケットで扱っている練り製品で

おでんを作ってみようと

おでんに近い種をいくつか買ってみた

現地のミースープ(ラーメン)にはスライスして入っていて

食せないしろものではなかったのだ



ごぼう天とかエビダンゴやハンペンなど、

巾着もあった

そのほかに大根、ゆで卵、こんにゃくなども入れて

なかなかの出来栄え



ところが味見する前から少し様子がおかしい

味見して驚いた

独特の油のにおいがきつくて食べられないのだ

もったいないけれど全て廃した

やはりおでん種は紀文か?

残念




最初に住んだところは

ブロック413

Pandan Garden 「パンダン・ガーデン」

という地名がついていた

近くに福建のお寺があって京劇をやることもあった



1フロアに4軒の20数階建の高層住宅

7階だったろうか?

このお家は赤道直下のシンガポールにもかかわらず

エアコンが無かった

3LDKで200平米ほどあったろうか?


オーナーが2年間ロンドンに留学するので

その間、賃貸したいとのことで

まわりに日本人はいなくて

完全にローカルの中に居たなぁ

普通、企業駐在日本人は

ある程度のレベルのところに

かたまって住んでるんだけれどね


今、ふと記憶に蘇った

ローカルのマーケットの名前は

Teban Garden 「テバン・ガーデン」だった


そしてAyer Raja Roadを渡ったところの

ちょっとしたグロサリー程度の小さなスーパーがFaber Market

315番のバスに乗って Tama Juronの

お友達のお家に行くのに

バス代が15セントだった

そのバスは昇降口のドアを開け放して走っていた

スコールがくると電気系統が弱い車がエンコしていたのを

良く見かけた


Bukit Timaのヤオハンが出来たのは

それからどれくらいたったころだろうか?


そして・・・

翌年の結婚記念日に長男を出産した


お医者さんは東北大学に留学した中国人の

Dr.Chow

まだ、若かったワタクシには結構なお爺ちゃんに見えたけれど

ベンツの2シータに乗っていたから

思ったよりも若かったのかもしれない

とてもお世話になりました


そうそう病院の名前が

カンダンケルバウ ホスピタルといって

きっとマレー語かインドネシア語がルーツだろう

そこはオーチャードを過ぎてNewton Circusを超えたところにあった











Newton circusのサーカスという言葉は

交差点が円形のロータリーになっているところで

信号が無くて効率よく交差点を横切ることができる

南仏を旅して分かったことだが

ヨーロッパではこの交差点は普通に見かけた

シンガポールは長くイギリスの植民地であったから

このようなシステムが取り込まれたのだろう


そしてこのニュートンサーカスは屋台が集まっていることでも有名

屋台と言ってもここはしっかりと店構えがあり

上水道も完備していたから衛生上は問題なかったと思う

マレーシアの串焼きサテーとか

しゃぶしゃぶのスティームボートとか

いろいろなシーフード料理

インドのカレー

中華料理

それらがレストランと異なるところは

南国の星空の下で頂くのだ


出産前から入院していたワタクシは

病院の食事をあまり食すことが出来なかったので

ダンナは仕事を終えて

お家でお弁当を作って病院までバスで通ってきた


数時間病院にいてまたバスで帰るわけだが

よほど疲れていたのだろう

いつも病室のベッドの横の椅子で突っ伏して眠っていた




・・・・・・・・・

大規模な中華料理店 88 (エイティエイト)というのが

Jarlan Ahamad Ibrahim(ジャランアーマッドイブラヒム)通りの

歴史を感じさせる通り沿いに大きな中華料理店があった

East Coastの浜辺が裏庭には続いていて

休日のお昼に飲茶を頂きにたまに行った


シンガポールの民族構成は1980年代前半ではあるが

70%が中国系

20%がマレー・インドネシア系

10%がインド系

だった

現在は変わっているかもしれない


だから中華は結構おいしくて

中国系は長州か福建だったからシーフードが主で

味付けもどちらかというと淡泊で薄味なところが

日本人にも向いていると感じた



・・・・・・・・・

福建と言えば

長男の出産後ひと月目のお宮参りは

シアンフッケンテンプルだった

小さな福建省出身者が建てたお寺だったが

歴史があって海の神様が祀ってあった


その時の記念写真をのちに見てみると

産後の疲れを目元に残しているワタクシがいた

ダンナが嬉しそうな顔をしているのが印象に残っている


長男がお腹にいる時の

ビーチで大きなおなかの妊婦さんが

収まっている写真がある


勿論、妊婦さんはワタクシで

その場所はシンガポール本島から船で30分ほど

沖合に行ったところにあるシスターアイランド


シスターアイランドというのは名前の通り

小さな島が二つ並んでいる島で

干潮になると歩いて一方から一方へ渡ることができた


そこで一日遊んでシンガポールに帰るわけだが

サヨリが面白いように連れた

  「南紗でサヨリとたわむる」

という紀行記を書いていたのはダンナ


若くして結婚したダンナはワタクシを養っていけるのだろうか?

と、いう不安を抱きながら結婚したわけだけれど

結婚と同時にシンガポールへ赴任することになったことで

生活は何とかなる

と確信してある意味肩の荷を降ろしたとは

後々に打ち明けられたことだった


そんなダンナも長男の首が座る頃

West Coastの公園で親子3人の写真に収まっている姿は

父親として何となく様になってきたように見えた

ちょっと下をうつむいて視線のさきは長男の手元

ワタクシだけがカメラに向かってほほ笑んでいて

長男は親指を立てて何か仕切りに話しかけている写真


お弁当を持って

チャンギーエアポートの飛行機が発着するところを

間近に見るのが好きだったダンナも息子も



・・・・・・・


南洋大学のシーフード店

ヒルトップ

アイヤーラジャロード

ジュロン

オーチャードブルーバード

懐かしい名前ばかり



パンダンダーデンのブロック413の我が家

パンダンリザボーの散歩道



5年間住んだシンガポールでは2度引っ越しをした

家具付きのお家で家財道具も大したものが無かったので

毎回ダンナが自分で引っ越しをしてたっけ


パンダンガーデンには2年住んだ


その後のシンガポールはまたの機会に

思い出がつぎから次にあふれてきて書ききれません

そして同じことを何度も何度も

ワタクシとダンナはこの先も

思い出を反芻していくのだろう・・・