True☆Love
   
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真の愛は真の家庭から

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 男女がいくら愛し合っても、幸福な家庭を完成させるには、必ず家庭の囲いとなる父母がいて、
大切にする子供がいなければなりません。

 家族という囲いがしっかりしているとき、その家庭は初めて幸福になります。いくら大きな社会的成功を収めたとしても、家族の囲いが崩れてしまえば不幸になってしまいます。

 愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。
 
 父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。

 子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえ忘れるのが父母の真の愛です。

 父母の愛は、世の中で最も偉大な愛です。

 いくら良い家で山海の珍味を食べて暮らしても、父母がいなければ心ががらんと空いてしまいます。

 父母の愛を受けられずに育った人の心の中には、他のどんなものでも満たすことのできない孤独と寂しさが隠れています。

 家庭は父母の真の愛を受けて愛を学ぶ所です。幼少期に愛されなかった子供たちは、生涯愛に飢え、情緒的な苦痛を受けるだけでなく、家庭や社会のために当然すべきことがあるという高い道徳的な義務を学ぶ機会を失ってしまいます。その意味で、真の愛は、家庭以外の他の場所では決して学ぶことができない価値だといえます。



『平和を愛する世界人として』 文鮮明自叙伝より

☆m・f78☆

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人には愛があります。

しかし、愛というのは、
「私」一人では現れません。

男性が一人でいるときには、愛は現れません。

男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。

このように、相対が現れて初めて、愛が生じるのです。

今まで、妻は妻なりに、
夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに
「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。

愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」が
もつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲に ならなければなりません。

世の中で「慈悲」という言葉も、愛がなくては出てこないのです。

「仁」という言葉も、一人では出てこないのです。

「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語られるものです。


  ~天国を開く道~より


☆m・f77☆

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   《栄光の冠》

私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。

私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。

私が人を憎む時 私は存在価値を失ってしまいます

しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます

今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。

私が間違っているのでしょうか。

そうです。私が間違っているのです。


たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。

たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。

憎む者までも ことごとく愛してください。

涙を拭いて 微笑みで迎えてください。

人をだますことしか知らぬ者たちを
裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも……。


おお主よ! 愛するという痛みよ!

私のこの苦痛を御覧ください!

熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!

私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。


しかし 裏切った者たちを愛した時  私は勝利を勝ち取りました。

もし あなたも 私のように愛するならば
私はあなたに‘栄光の冠’をお捧げします。



     by ~R.S.M~
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