考えすぎ -210ページ目

尊厳死か、延命治療か

今回は、アメーバブログが主催している
『Think Japan』
というブログの、
『【第6回】尊厳死について、どう考えますか?』
という記事への回答コメントを、そのままここに転載します。


コメントでも、トラックバックでも、ご意見を頂ければ幸いです。


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単に「回復の見込みがない」ということだけであれば、
延命治療を希望します。
ただし、その時点で既に脳死状態になっているのであれば、
尊厳死を希望します。


家族や周りの人にとって、僕の死は「心の死」よりも「からだの死」を意味するでしょうが、
僕自身にとっては、「心の死」が僕の死です。
だから、
既に心の死んでしまった僕をからだだけ生かしておく、ということは望みません。
むしろ、僕のからだを生かすための経済的負担や労力を、
もっと他の有意義なことに回して欲しいからです。


もちろん、この意見は、
残された家族や周りの人の気持ちを無視した、自分本位なものです。
だから、あらかじめ周りの人とよく話し合っておくことが大切だと思います。
その意味でも、「リビング・ウィル」には賛成です。


また、冒頭で述べたことに戻りますが、
もし単に「回復の見込みがない」だけであれば、個人的には延命治療を希望します。
残された時間が僅かだとしても、それまで僕の心が生きているのなら、
自分の人生の総括として、残された時間でやれることがまだあるかもしれないからです。


もっとも、
「脳だけが生きていて、体も動かせないし言葉も話せない」という状況になったら、
それはそれで、耐えきれないほど孤独な世界かもしれません。
しかし、もしそうだとしても、僕は死が怖いので、
自分の心が生きている限りは、たとえ苦しくとも生かしておいて欲しい、
・・・と今は考えています。

『笑いの大学』

三谷幸喜監督の舞台劇作品を映画化したもの。
『笑いの大学』。
ずっと観そびれていましたが、先日、DVDを借りてきました。
・・・面白かった。
さすが代表作と言われているだけあって、腹の底から笑わせてもらいました。


やはり、「笑い」には「哀しみ」がつきものなんですね。
人間の本質的な哀しみに迫ることほど、実は笑える。
・・・そのことを、『笑いの大学』を観て、改めて強く感じました。




三谷幸喜監督は、何か訊かれるたびに、
「私にとって、笑いがすべてです」
と答えています。


その強い信念を、直接見た思いがしました。この映画で。

アウグスティヌス

キリスト教の教義は、多くの非合理な点を抱えています。


たとえば、
「無限の存在である神が、有限の存在である人の子イエスとして現れた」
という説明や、
「全知全能の神が作ったはずのこの世界に、多くの罪が存在している」
という事実など。



初代キリスト教会の教父アウグスティヌスは、
こうした非合理さをめぐる問題ついて、プラトンイデア説を借りて次のように解説しました。


そもそも、イデアを完全に知っているのは神だけである。
人間は不完全な存在であるから、
疑い得ない真理を知りたければ、神に頼るほかない。


・・・つまり、
神は人知を超えた存在であり、その全貌を人間の理性だけで理解することは到底不可能だから、
人間は、ただ神を信じるほかない、
ということです。




(これは、『ダムの決壊』 掲載の《西洋哲学史》 についての補足的記事です)

ネットと現実

「ネットと現実」という区別に違和感がある。
・・・と、以前、『現実逃避なんてできない』 という記事の中で書いた。


この感覚は、今でも変わらない。




ネット上の文章は、この世界の誰かが実際に書いたものだ。
だから、その文章の書き手は現実に存在する。


もっとも、直接会って話すわけではないから、
相手の素性が知れない、という面はある。
しかし、直接会って話す相手であっても、
実はそれほど素性がはっきりしているわけではない。
自分を偽ることくらい、言葉さえ話せれば誰でも簡単にできるのだから。


「ネットと現実」
という区別をしてしまうのは、
ネットに対して慎重であるから、というよりは、
むしろ、自分の経験を過信しているからではないだろうか。

家事

少しずつ家事をこなせるようになってきました。


今後は、自分のペースをひどく崩すようなことにならないよう気をつけます。
そもそも、自分のペースは、
誰かに理解してもらうためにあるのではなくて、
自分が生きるためにあるのだから。


誰かに理解してもらえないからといって、
自分のペースを崩してしまっては、本末転倒。


このことを、よく肝に銘じておこうと思います。

法事

今日は実家に泊まります。


明日(6月4日)、法事があって、
朝早くにみんなでお寺に行くので。




毎年、この時期になると、
虫が活発に動くようになってきます。
さっきも、部屋にいた小バエを何匹か、退治しました。


お寺にハエはつきもの。
考えてみると、
「生命」を感じる場所には、いつもハエがいるような気がします。


お寺とか。山とか。
アフリカにもたくさんいそうだし、
インドにも多そうですね。


でも、インターネットには、ハエは存在しない。




さて、それではまた。

行為そのものに矛盾はない

一度にたくさんの矛盾した気持ちや考えを持つことがある。
その時、人は葛藤する。
そして、自己矛盾に苦しむ。


一度にたくさんの矛盾した体勢や行動をとることは、できない。
それを無理にしようとしても、
骨折したり、病気になったりして、結局、矛盾は残らない。


いつだって、行為そのものに矛盾はない。
矛盾してしまうのは、その行為を裏付ける思考のほうなのだ。

それを言葉で表現するのは無理だ。

強いて言うなら、
「言葉では、うまく表現できない」
ということ。
それしか言えない。


大事なことなのに、
その大事さをそのまま言葉で伝えることができない。
言えるのは、いつも、まわりの部分だけ。
最も肝心なことが、うまく言葉にならない。


僕、これでも一応、かなり必死なんです。




というわけで、今日の『ダイモニオンの声』
「それを言葉で表現するのは無理だ。」

形から入って、何がいけない?

形にばかり気を取られ、肝心の中身がない。
・・・これは良くない。


しかし、そうだとしても、形から入ることは悪いことではない。
何もわからないうちから核心をつかもうとしたって、そう簡単につかめるものではない。
だから、まずは形から入ってみることも大事だろう。


つまり、
「形から入っている」
ことが良くないのではない。
「『形から入っている』という自覚を持っていない」
ことが良くないのだ。


自覚さえしっかりと持っているなら、
中身なんか全然なくて、形だけにこだわっているとしても、
それはそれで、確立された一つの生き方だと言える。




というわけで、今日の『ダイモニオンの声』
「形から入って、何がいけない?」

休学願

休学願を、提出してきました。
いろいろあった末の、結論です。
正式に認められるのは、教授会で承認された後ですが。


相談すべき人に相談していなかったり、
手続きに、いくつか問題はありますが・・・
でも今は、心身の健康を取り戻して、一人暮らしを成り立たせることが先決。
少しずつですが、状況は好転してきています。


一人暮らしのスタイルがそれなりに出来ていけば、
今年の休学も無駄ではなかった、ということになります。
再出発です。


って、これで「再出発」するのは何度目だろう・・・。