考えすぎ -210ページ目
2005年05月09日(月)

大切な何かをはぐらかすため

テーマ:言葉/コミュニケーション

喋れば喋るほど、
大切な何かをはぐらかしているような気がする。



沈黙に耐えかねて、喋りだす。その喋り初めは、溜め込んだ思いそのものだったはず。
それが、
いつの間にか、ただの習慣になっていく。
もう、その時は既に、切羽詰って吐き出された本心からの言葉なんかではなくて、
言い慣れて使い古された言葉。
それをさも新鮮なもののように言う術までもを身につけて。



僕が「死が怖い」と喋るのは、
死の怖さをはぐらかすためだろう。
誰かにわかってもらうことで、怖さをはぐらかそうとしているのだ。


本当に怖い時は、
悲しすぎて、何も言えない。

2005年05月08日(日)

ええねん

テーマ:人間/人生

ウルフルズの『ええねん』。
これ、究極のポジティブ・シンキングの歌だと思う。
感じ方は人それぞれかもしれないけど、
この歌以上のポジティブ・シンキングを、僕は知らない。



ポジティブ・シンキングを妨げるものは、たくさんある。


未来の理想に向かって努力すること。
過去の原因に学んで反省すること。
どちらも、前向きに取り組んでいる間は、ポジティブ・シンキングを後押しする。
でも、人間は、いつもそれほどタフなわけじゃない。
努力しても報われず、遂に挫折してしまうことがあるし、
反省しても報われず、疲れ果ててしまうことがある。
そうなると、かえって虚しくなってしまう。


生き甲斐を見つけること。
自分が生まれてきた意味を探すこと。
どちらも、前向きに取り組んでいる間は、ポジティブ・シンキングを後押しする。
でも、人間の意志は、いつもそれほど固いわけじゃない。
生き甲斐なんてないと感じて、目先の快楽に逃げてしまうことがあるし、
生まれてきた意味なんてないと感じて、人生に絶望してしまうことがある。
そうなると、かえって虚しくなってしまう。


原因や意味を考え始めると、いつの間にか、自分の首を締めてしまう。
理想や目標を追いかけても、いつの間にか、自分の首を締めてしまう。
なぜなら、どの場合も、今の自分を肯定しないでいるからだ。



今の自分を肯定するのに理由なんていらない。
今、ここに自分がいる。
いろいろなことを感じながら、悩んだり苦しんだりしながら生きている。
それだけで、『ええねん』。


そういう、究極のポジティブ・シンキングの歌。『ええねん』。


アーティスト: ウルフルズ
タイトル: ええねん
2005年05月07日(土)

反「結論」主義

テーマ:「まこっちゃ」の反省

『ダムの決壊』の2003年の主張 の、6月19日『反「結論」主義』に関して。



「結論を出そうとしてはならない」
と書いた。
でも、これはちょっと間違っていたと思う。
たぶん、こう書いたほうが正しかった。
「結論が出てしまってはならない」


どちらの書き方も、あまり論理的ではないと思う。
かなり直観的なものだ。
どちらの書き方も、すぐ「絶対」という言葉を使いたがる僕自身への戒め、という意味合いが強い。


そして、結論が出てしまってはならないのだから、
たまには結論を出してみるのも必要かと思う。




余談だけど、2003年の僕に対して、
2005年の僕は、こうやってつべこべ言うことができる。
でも、2003年の僕は、それに対して反論することができない。
だから、ついつい、2005年の僕が言っていることのほうが正しい、というふうに見えてしまうけど、
それは単に、時間的な前後関係を錯覚しているだけのような気もする。
2005年の僕は、2003年の僕が本当に言いたかったことを誤解(または都合よく解釈)して、
相手(つまり2003年の僕)の本心を無視したまま好き放題言ってるのかもしれないのだから。

2005年05月06日(金)

問う理由

テーマ:人間/人生

大切なのは、むやみに結論を急ぐことではありません。
むしろ、結論が出そうになるたびに、
「本当にそれで良いのだろうか」
と、問い直し続けること。その姿勢こそが大切なのです。


・・・といった意見を、したり顔に言う人が時々いる。
(自分も、その一人かもしれない)


でも、「問い直し続けることが大切」と言ったって、そんなこと、意識してできるものなのだろうか?



「問い直し続けることが大切だ」
・・・こう言い切るならば、この言い切りもまた、一種の結論になってしまう。
だから、もし、あくまで問い直し続けようと意識するなら、
問い直し続ける、という姿勢そのものについても再び問い直す必要が出てくる。
「問い直し続けることなんて、本当にできるのだろうか」
「ただ問い直し続ければいい、という姿勢は無責任ではないだろうか(つまり、結論を出さないことによって責任逃れをしているだけではないだろうか)」
・・・という具合に。



そもそも、人はなぜ問うのだろうか。
それは単純に、答えを知りたいからだろう。
真剣な問いであれば、それは答えを知りたいから問うのであって、問い続けたいから問うわけではない。問い続けるだけのために真剣に問う人なんて、まずいない。
結果的に、問い続けることになってしまうことは多々あるけれども。


人は、結論が欲しい生き物なのだ。
だから、問い直し続けることを勧めるなんて、実は、ちょっとおかしい。
問い直すことは、あくまで、
より優れた(または、より納得のいく)結論を導き出すためにすることであるはずだから。



本当に大切なのは、いつまでも問い直し続けることなんかではない。
もはや逆立ちしても問い直すことができないような、確固たる結論を手に入れること。
それこそが、最も大切なのだ。
結果的に、問い直し続けることになってしまうことに変わりはないかもしれないけれども、
冒頭で述べたような言い方では、どこか間違っているような気がする。


わざわざ、問い直し続ける姿勢を持とうなんて、するものじゃない。
問い直し続けなければいられない性格なんて、決して、誉められたものじゃない。
もし結論が出せるのなら、それに越したことはない。
僕は、ただ、結論を出したくても出せないだけなんです。

2005年05月05日(木)

善だと信じて疑わない

テーマ:善いことと悪いこと

善意でやっているつもりのことを、「それは悪だ」と言われて腹が立つことがある。
善意でやっているつもりのことでも、「これは悪ではないか」と悩んでしまう時がある。
どちらの基準が正しいのだろう。
どういう基準で悪を設定すれば、悪について、他人と同じ意識を共有できるのだろう。


法律では、犯行時に正常な判断能力を完全に失っていた犯人に対しては、罪が問われない。
その代わり、精神病院に入院させられることが多い。
悪意でやったわけではなく、本人の精神的異常のせいで起こしてしまった犯行だから、という理由で。


良かれと思ってやったのに悪い結果を生んでしまった例は、枚挙に暇がない。
自然科学の発展が人類にもたらしてきた不幸は、およそ、どれもこのようなものだろう。



何が善で、何が悪か。
善のつもりでいることも、実は独り善がりなものではないのか。
・・・そう問い始めると、それまで常識的に善だとされていたものが、次々と疑わしくなっていく。


しかし、少なからず、そういう風に次々と疑わしくなってしまうことのまったくない人たちがいる。
その人たちは、自分たちの信じる善を善だと信じていて疑わない。
信じて疑わないことそのものが実は独り善がりかもしれない、という可能性を、その人たちは頑として受け入れない。ように見える。
その人たちから見れば、僕などは逆に、明らかに善であることを善だと受け入れず、明らかに悪であることを悪だと認めない、途方もないひねくれものに映るのだろう。
さて、そのどちらが正しいのだろうか。


善と悪。
切迫した重要な問題かもしれない。
でも、だからと言って、そう単純に答えを出せるものではないはずだ。と、どうしても僕は思ってしまう。




この記事は、reionさんのブログの記事『不考』 を参考にして書きました。

2005年05月04日(水)

ネガティヴ思考のすすめ

テーマ:「まこっちゃ」の目標

ネガティヴ思考が止まらない。止められない。悪循環。
・・・そして、この状況に自己嫌悪して、さらにネガティヴになってゆく。


この感覚は、おそらく、いつもポジティブにものを捉えている人にはピンと来ない。
ポジティブ思考は、ネガティヴ思考を救うことも支えることもできない。
むしろ、虚しくさせるばかり。
「前向きに考えようよ」
「生きてさえいれば何でもやれるさ」
・・・こうした言葉は、ネガティヴ思考を余計ネガティヴにする。
まるで、自分のネガティヴさを指摘されているようだから。


ネガティヴ思考だけが、ネガティヴ思考の味方になれる。
ネガティヴ思考だけが、ネガティヴ思考を理解できる。
だから、悪循環にはまってしまうくらいネガティヴ思考が続くなら、
いっそのこと、とことんネガティヴに考え抜くといい。


そうすることによって、
ネガティヴ思考の人の気持ちが理解できるようになる。
共感できるようになる。
だから、そういう人を蔑まなくなる。
そういう人を簡単に蔑むような、思い上がった人間にならずに済む。


思い上がったポジティブ思考は、
しばしば、気づかないうちに誰かを傷つけてしまうこともある。
そんな人間には、なりたくない。

2005年05月03日(火)

グーグーパンダの語る人生

テーマ:サイト紹介

『グーグーパンダの語る人生』
・・・このブログでは、人生への洞察の手掛かりとなる偉人の言葉を紹介しながら、人生について、語られています。


古今東西のいろいろな考え方を紹介していますが、ブログ主さん自身の言葉で語られていて、語り口も平易で、とても読みやすいです。
また、ここのブログ主さんは、話し上手なだけでなく、大変聞き上手だ、という感じがします。
多くの人がコメントを残していっていますが、どのコメントに対しても大変気持ちよく返事をしていらっしゃるので、コメントする側としては、ついつい話を引き出さされてしまいます。この聞き上手さに、僕としては、頭の下がる思いです。


真似しようとしても、こういうことはなかなか難しいです。
だから僕は、これからも相変わらず、自分の考えをまくしたててしまうような話し方を続けようと思います。自覚しているから許されるだろう、という気持ちで。

2005年05月02日(月)

『星の巡礼』

テーマ:今日の「まこっちゃ」

生きる上で、本当に大切なこと。
それを教えてくれるカリキュラムなんて、実は、どこにも存在しない。


学問?・・・そんなもの、なくたって生きていける。
社会性?人間的成長?・・・そんなもの、いざという時には何の役にもたたない。
学校のような組織がカリキュラムとして教える内容なんて、たかがその程度のものだ。


生きる上で、本当に大切なこと。
それは、誰も教えてくれない。
なぜなら、教えたくても教えられないものだから。だから、教わりたくても教われない。
自分で見つけ出すしかないのだ。



ただし、教えることはできなくても、自分で気づくのを手助けすることなら、できなくもない。
つまり、修行をさせる。そして、その様子を見守りながら時々、助言を与える。


修行は、修行そのものに意味があるわけではない。
修行を通して、自力で見つけ出した答えに意味があるのだ。
学生を教えている先生のなかには、
このような意味での「修行」として、「勉強」を位置づけている人もいる。
いかにもその「勉強」そのものが大切なものであるかのように見せながら、実は、その先生自身は、別のところを見ているのだ。
そういう先生は、本当の先生だ。と、僕は思う。



『星の巡礼』という作品は、
パウロ・コエーリョという作家の処女作。
この人は、日本では『アルケミスト』という作品を著したことで広く知られている。
僕は以前、『アルケミスト』のほうを、高校二年の時、ある学校の行事で読んだことがあった。
それは、生きる上で本当に大切なことを学んでいく少年の物語だった。
あれからもう六年が過ぎて、この『アルケミスト』をもう一度読みたくなった。
そして、書店で買った。
もう一冊、『星の巡礼』と一緒に。


今日、この『星の巡礼』を読み終わったので、簡単に紹介します。
『星の巡礼』も、生きる上で本当に大切なことについて書かれた本です。
でも、ここに書かれているのは、大切なことそのものではなくて、それを理解する方法です。
著者がそれを理解していく過程が、生々しく描かれています。
多少、読者を選ぶ感が否めませんが、少なくとも僕にとっては、生きる上で気をつけるべき多くのことを思い出させてくれる一冊となりそうです。
修行の実践的な内容をかなり含んでいて、しばしば聖書の言葉が引用されているので、キリスト教に抵抗や距離を感じる人には多少、読みにくいかもしれません。


著者: パウロ・コエーリョ, 山川 紘矢, 山川 亜希子
タイトル: 星の巡礼
2005年05月01日(日)

感謝の言葉は、伝えられるうちに

テーマ:「まこっちゃ」の反省

言いそびれた感謝の気持ち。
誰もが、その相手が死んでしまった後に、思い出したようにその気持ちを言葉にする。
・・・それでは、もう遅いのに。


それとも、その気持ちが本人に伝わらなくても平気なんだろうか。
きっと、平気なんだろう。
ああいう言葉は、本人に伝えたくて出てくるんじゃない。周りの人に聞かせたくて出てくるんだ。
そうでなかったら、むしろ後悔のあまり言葉も出ないはずだ。


「自分が死んだら、みんな悲しんでくれるだろうか」
・・・ひょっとすると、こういう気持ちの裏返しなのかもしれない。
死人に口なし。死んだ人間は、もう顧みられない。ただ忘れ去られるのみ。でも、そうは思いたくない。
だから、故人をひたすら偲ぶことによって、自分もまた死後も思い出してもらえることを確信したい。
・・・そんな気持ち。


だけど、死んでからその存在を記憶に刻み直したって、そのことは当の本人にはわからない。
伝えそびれた感謝の気持ちは、相手が死んでしまったら、伝えそびれたままになるしかない。
だから、なるべく早く。
もう、遅いかもしれない。


そう思いながらも、ためらってしまう常日頃。
いつか、きっと後悔する。
後悔するとわかっていながらそのまま後悔するのだから、途方もなく馬鹿だろう。


そうならないためには、
意識しすぎることなく、日頃から感謝の気持ちを伝えられるようにならなければ。
ためらう間もないくらい自然に、特に意識せずに。

2005年04月30日(土)

わかってしまったら、「何かがおかしい」

テーマ:矛盾/逆説

わかってしまったら、もう、おしまいだ。
すべては、そこで止まってしまう。
人は、「変化しか感じ取れない」という宿命を背負っている。だから、止まってしまったら、だんだんとそのことは薄れていって、遂には消えてなくなってしまう。


いつも見えているものは見えなくなる。
いつも聞こえているものは聞こえなくなる。
いつも嗅いでいるにおいには慣れてしまい、慣れ親しんだ環境のことは意識しなくなる。
幼い頃、あんなに不思議に思っていたことも、不思議でなくなると、次第にその存在さえ忘れてしまう。


わからないことよりも、わかっていることのほうが問題だ。
わかってしまったら、「もうわかった」という錯覚から抜け出すことは、もはやできない。Aさんの「もうわかった」と、Bさんの「もうわかった」の中身が食い違っていると、喧嘩が始まる。戦争も始まる。わかっていない相手に対しては非常な苛立ちを覚えるし、内容によっては、それが怒りに変わる。だから、戦争が起きる。


わからなければ、いつまでも、わかろうとし続けることができる。
でも、一度わかってしまったら、もう、それ以上わかろうとすることはない。
だから、わかろうとすることは大切だけど、わかってしまってはいけない。もし、わかってしまったら、「何かがおかしい」と思わなければいけない。

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