知ろうとすること | 考えすぎ

知ろうとすること

およそ知りうるすべてのことを、人間は知ることができる。
知ることのできる範囲は、果てしなく広い。
しかし、それを知ろうとすると、知ることのできる範囲は急に限られてくる。
知ろうとすることによって、知ることのできなくなってしまうものが山のようにあるからだ。




Aさんが「a」と言った。
Bさんは「b」と言った。
そこで、Cさんは、
「a」と「b」のどちらが正しいのか、をきちんと知ろうとした。


しかし、Cさんは気づいていなかった。
知ろうとした時点で既に、
「『a』と『b』のどちらかが正しい」
と決め付けてしまっていたことに。


そして、知ることができなくなってしまっていた。
「a」も「b」も実は間違っていた、ということを。
もしくは、「a」と「b」はそもそも比較できない、という現実を。
あるいは、Aさんの「a」という発言はCさんの聞き違いだった、という事実を。




「靖国問題について、きちんと知るために、
中国人や韓国人の意見にもしっかり耳を傾けよう」


・・・そう思った時点で、実は、既に決め付けている。
中国人共通の意見があり、韓国人共通の意見がある、ということを。
そして、中国人のDさんの話を聞いた時、
それをDさん個人の意見としてではなくて、中国人共通の意見として聞いてしまう。




知ろうとする、ということは、
知りかたを設定する、ということだ。
だから、そこで設定されなかった知りかたで知りえたはずのものについては、
かえって知ることができなくなってしまう。


謙虚に知ろうとすればするほど、
無意識のうちに、この盲点に陥りやすくなるような気がする。