藤沢 周平
隠し剣孤影抄 (文春文庫)
 


藤沢 周平
隠し剣秋風抄 (文春文庫)



梨木 香歩
ぐるりのこと
 多忙にかまけて、本を読むのもおろそかになり、せかせかしているうちに、あわただしい年の瀬になってしまい、やり残したことや、ああしておけばよかった、こうしておけばよっかったとか、苦い後悔とともに大晦日をむかえて、ここまできたら開き直るしか無いじゃん、とばかりに書庫の整理もせず、読み残した本を手にするでもなく、藤沢周平なんか読んでいる。年の瀬に藤沢周平って、とベタな自分の心持を嗤う。
 藤沢周平は苦手であった。耽美的なロマンティシズムの過剰さと、情緒に流され行き着く先はお決まりの斬り結び、そして死とその定型ともなったストーリーテリングが、あの駄作映画『ラストサムライ』の空疎な粘着感を思わせ辟易していた。少なくとも若い頃は。しかし、最近になって文章の巧さに、ややっとうなることが多くなり、特に短編のくみ上げ方の巧みさに読んでいて気持ちが良くなることに気づき、久しぶりに『隠し剣』シリーズを再読した。
 巧い。中でも『宿命剣鬼走り』の悲哀を描く様は圧巻である。しかし、行き着く先はやはり斬り死になのね。この死を美しく描くメンタリティーは最早、日本人向けエンターテインメントの定型だわ、と思いつつも、忠義や大義に殉じるのではなく、あくまでも下級武士の悲哀として、言い換えれば自分自身、または家族の大切なものへの信に殉じるところがまだ、救いでもあり、組織にもまれるサラリーマンの愛読書たる所以なのであるが、最後は死ですよ。というところは押さえておきたい。
 そういった、何かに殉じる日本人のメンタリティーを梨木香歩はエッセイ『ぐるりのこと』で「葉隠精神」と呼んでいる。「武士道と云うは、死ぬことと見付けたり」で有名な『葉隠』である。個人を超えた何かに自分自身をアイデンティファイしてゆくメンタリティー。それは、外に対してはファナスティックな集団と映り、中に対しては思考停止の安穏さと空虚さの泥濘のようなまどろみを特徴とする。この、一見、美しいまどろみの夢から覚めるには、個人のリアルな感覚、フィジカルな感覚が必要であると説く。それは、異質なものとの出会いから始まるのだと。至極、もっともである。
 私たち人間は、あまりにも発達した知性を持つがゆえに、自分と世界との関係性を考えたり、生きる意味を求めたりすることにやまない。それが、時に過剰な意味付けと逆に深遠なる虚無との間で煩悶を呼ぶ。
 作家の保坂和志氏が愛猫の死に際してどこかでこんなことを言っていた。彼らは死ぬときに何かに頼ろうとはしない、たった一人でただ死んでゆくだけだと、詳細は忘れたが、確かそんな意味のことだったと思う。動物は死に対して、恐怖や忌避をせず、それに対して助けも求めない、そのときがきたら、ただ絶望的に死んでゆくだけである。いやそれは最早、絶望的ですら、ない、ただ死の状態への移行があるのみであり、そこには悲しみも存在しない。このように云うとなにか無慈悲のように聞こえるかもしれないが、死というのは状態であってそこにはなんら意味はないのである。意味を付加するのは人間の所作に他ならない、唯々諾々と死んでゆく愛猫を悲しむのは、人間であって彼ら自身ではない。このことは、おそらく人間も一緒であって、人はおそらく自分の死を死ぬこととしては経験できない。なぜなら、それが訪れたときは、最早、死の状態へ移行してしまっているからである。この、死を死ぬことができないところに、死をファナスティックに意味づけする、精神の根幹があるような気がする。
 だからこそ、生きるのである。自分を超えるものにアイデンティファイするのではなく、自分の周りに想像を働かせ、リアルを感つつ、異質なものとの出会いに畏怖し、共感し、歩むのである。生きる、凛として生きる。これを来年の目標としたい。

 つまり、我等に欠けてるものは、
 実直なんぞと、心得まして。
 ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に-
 テムポ正しく、握手をしませう。(中原中也)

皆様、よい年をお迎えください。