
笙野 頼子
一、二、三、死、今日を生きよう!成田参拝
『一、二、三、死、今日を生きよう!』は笙野頼子が成田国際空港をめぐる国家と住民の闘争の現場を訪れた記録である。しかし、そこは笙野頼子のこと、単なる現場の報告を超え、それを彼女自身の問題として捉え、更なる飛躍を試みる興味深い本である。以前、生田武志の『ルポ最底辺』について触れたときにもかいたのだが、ルポルタージュする者は対象者との間に、当事者として問題に直面する者に対し、傍観者としての俯瞰的視座から見下ろしてしまうという危惧がある。このことはドキュメンタリー映像の作家たちにも自覚的に考えられ、同じ成田闘争を扱った小川紳介は擬似共同体的なチームを編成しより当事者サイドからの撮影を試みた。このことは先に亡くなられた佐藤真氏らにも受け継がれ『阿賀に生きる』ではスタッフが共同生活を住人としながら撮影されたという。
この対象者と観察者の埋めがたい溝に関して笙野もやはり自覚的であり「成田なんて今まで十円もカンパした事もないのに」といいながらもその現場へと足を運ぶのであった。そしてそこで、滑走路にはさまれた迷路のように孤立した農地を見やって笙野は「ええ、私服刑事 まだ親父さんくたばらねえとか、そういういやみを 親戚の勤め先まで何か言ってたような そういう警察の弾圧とか、庭先にあるみたいなものですよ ここをそういう大型ジェット機がエンジンを噴かして行き来 排ガスの臭いが頭にこびりついて。南風のときはもう真っ正面 軒先まで有刺鉄線を張って 軒先まで工事をやってくると 出入りには夜にサーチライトで追いかけて照らすし、うちのうしろの通りへ出る前で検問を受けるのです(コラージュした参考文献の引用)」(参考文献は『三里塚の土に生きる』『着陸不可』『三里塚』ーワイズ出版『三里塚』-朝日ジャーナルより 引用者注)と過去の闘争の記録からコラージュする。そしてこの何かブレードランナーじみた近未来世界のような悪夢は、絵空事ではなくて実際成田の農家でのことであると、その高い塀に囲まれ、警察車両からの監視を受ける中で笙野は感じると、こう看破する。このシュールな状況を、「さて、もしこれが詩のように見えるとしたら、普通はジェット機が庭先に来るなどというのは空想か、権力を描く時のレトリックになるのだが、でもこの土地には実際にそういう信じられないことが起こっている、それゆえに詩のようになってしまうということなのである。 散文が詩になってしまう状況、これを今不謹慎だが弾圧と呼んでしまおう。」と。
さて、この一文を読んだ私は石川啄木が『喰らうべき詩』のなかで。「ちょっとした空地に高さ一丈位の木が立っていて、それに日があたっているのを見て或る感じを得たとすれば、空地を広野にし木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁いある人にしたうえでなければ(中略)満足できなかった」と詩作について語ったことを思い出す。一丈の木を大木に、自分をイロニー帯びた旅人に。ああ、なんと言う牧歌的な!一丈の木の向こうに鋼鉄の銀に光る機体を、観察者を当事者意識を持たない弾圧に加担するサイドの人間に変質するこの現代のシュールさに比べたら!
そして笙野はその非当事者たる意識の思索から近代日本の隠蔽された構造へとその思考を進めてゆくのだった。とりあえず「近代以降の私は虚構である、小説の中の内面や私は空洞である、そういう馬鹿気た定説的文学史観がどうやら変で偽物だということが判ってきたから」と言いつつ。