「死へ向かって歩く(NO298)」

 

   人生もいよいよ終盤を向えている。ゴールは「死」。死へ向かって私は日々を生きている。人間の一生のゴールは死だ。生まれた瞬間にそのことはわかっていること。でも何故かその人生のゴールを人は避けている。何故なんだろう。それは「死」は自分の消滅を意味するからだろう。自分が消滅してしまったら全ての事はなくなってしまうから。死は人生最大の喪失だから人は死を拒むのだろう。

 

でも本当にそうだろうか。そう思う限り人の一生は悲劇でしかない。何故ならこの満ち足りた豊かな人生のゴールは人生最大の不幸である死なのだから…この矛盾は何だろう。何かおかしいではないか。人生のゴールに最大の不幸が待っている人生なんて初めからいらない。ゴールである「死」は終わりではなく新しい出発なのだろう。そして、その出発は自分の人生の「卒業」なのだろう。卒業は次の新しいステージが用意されている。四苦八苦の悲しみと困難に溢れたこの世を見事に卒業して次のステージに行く。そこは四苦八苦や悲しみや困難のない穏やかな「浄土」だと思いを定めると、ふっと、「死」ということがとても愛しい世界に見えてくる。

 

「死」という最大の喪失の怖さを減じたいと思って私は70歳から哲学を紐解いた。「哲学の動機は驚きではなく悲哀でなければならない」と言った西田幾多郎は、その言葉に何を秘めたのか。この前読んだ「河合隼雄の幸福論」には、「幸福は幸福の底を流れている悲しみに気がつくことだ」と言う。逆から言うと、悲しみに気がつかなくては幸福感は得られないということだ。これは、西田幾多郎の哲学の動機と重なる。

 

「悲しみは真の人生の始まり」と言う言葉もある。悲しみを認識しなければ真の人生は始まらないのなら、一体どういうふうに生きればいいのか右往左往してしまうではないか。でも私はその右往左往をしない境地を開きつつある。哲学のおかげだ。真の人生とは死から始まる、死は悲しみの最大のものだからその最大の悲しみを通じて真の人生が開く、悲しみはだから、真の人生を拓く必要条件なのだと整理すると、死がずっと近づいて親近感を覚える。河合隼雄が幸福論でいうもう一つのこと。フルート奏者の彼は、自分の出している音は、聞こえていない音を感じることで輝くということ。これは、「見えないモノを見聴こえない音を聴く力」だと私は自分の言葉に直して整理した。

 

死後の世界は誰も語らない。しかし様々なことが言われている。それは非科学の形而上の世界だから、証明はできない、しかし信じることはできる。確信は証明に勝るのだ。ここに科学と言う形而下は形而上に跪く。信じてしまえば怖いものはなくなる。誰にも迷惑をかけることなくそれは自分だけの世界だからだ。「14歳からの哲学」という中学生の倫理の教科書の副読本を書いた池田晶子は、宇宙の中に生きてこの世には生きていなかった。就寝して宇宙と交信できることを唯一の楽しみとしていた。その世界は彼女でしかわからない世界であり、他者に迷惑をかけるものではない。でもその哲学者の彼女を教育という形而下の範疇の教科書として採用した文科省の役人は何かを感じてそうしたのだろう。ここに形而下と形而上、科学と非科学、生と死、この世とあの世、を結ぶ架け橋が存在している。

 

生まれた時から人間は死へ向かって歩きはじめる。でもそのゴールである死をしみじみと感じて見つめ直すのはやはり、若い時ではなく年老いたゴール間近の人生の終盤だ。80歳を越えるあたりだろう。喜寿(77歳)がその起点かもしれない。喜寿までは元気に生かして下さい、とずっと神様に祈ってきた。その喜寿が目前だ。おかげさまで元気に生きて来られた。大富豪にならなくても、政治家として名を刻まなくても、科学者としてノーベル賞をとらなくても、いわゆる競争と他者との比較の世界で1番にならなくても、この歳まで元気に生きて来られたことを先ずは感謝するべきだろう。そしてゴールはどんどん近づいてくる。そのゴールに抗ている限り豊かな穏やかな人生にはならない。ゴールである死は卒業であり卒業は新しいステージへの旅立ちであり「浄土」への道なのだと整理することで、死ぬことの意味が分かってくる。同時に、悲しみと困難に向う力も出てくる。

 

悲しみを真の人生の始まりと捉え、困難を自分のこの世での修業と捉え直すことで、悲しみと困難は乗り越えられる。例え乗り越えられないとしても、人間は万人が死を迎えることができるのだから、その死の瞬間に浄土への切符を手にできる。これはただの絵空事ではない。私が私の思考の中で整理できたことなのだ。まだその整理は不十分で時折行ったり来たりして迷うこともあるけれど、確信がそこにあるから大丈夫。

 

そういう視点からこの人生を眺めると後悔もこれからの危惧も全て受入れていける。人の中を流れる時間は様々だ。赤ちゃんのままで死んで行く命もあるし、100歳まで生きる命もある。天変地異という大災害で失う命もあればそれを潜り抜ける命もある。犯罪に巻き込まれて失う命もある、戦争も最大の犯罪だろう。事故も背中わせにある。その中で一番多いのは病気なのだろう。死を成就するためには自分の中を流れている時間を止めなくてはならない。その止め方は人それぞれであり、それは人の個性の数ほどの種類がある。自ら自分の中を流れる時間を止める人さえいる。生まれてすぐにこの人生を去る命もある。母親と共に出産で逝ってしまう命もある。

 

でも可哀そうだという言葉よりも、卒業と言う言葉を私はそこに置きたい。そうしなければこの理不尽は到底理解し克服できないからだ。こう考えると、人の人生の長さは問題ではなくなる。長さではなくその瞬間の命の輝きだ。生まれて1秒しかその時間がなくても100歳まであった時間と比較することはできない。そう考えると、病気への処し方もそれぞれの価値観でいいことが分かる。大手術を連続でしても、手術をしない道を選んでも、それにより生きる時間の多寡は宇宙の時間から見ると全く問題にはならないからだ。人に流れる時間を見つめてそれに抗わない生き方をしたい。そこに無限の穏やかさがあり死を怖がらない達観がある。釈迦の空や無の世界と通じる。形而上は見えない世界であり聴こえない世界だ。その見えない音と聞こえない音を聞き取る力こそ偉大だ。

 

短い般若心経がそれを教えてくれている。「色即是空空即是色」なのだ。「色も空」も表裏一体なのだという境地を切り開けばこの人生への無限の感謝と勇気が心の中から湧いてくる。そこには無理はない。自然的な感慨がある。「死」はこの人生のゴール。そのゴールを可能にするにはゴールのテープを切る様々な方法手段がある。天変地異もそう、病気もそう、事故もそう、犯罪もそう、老いもそうだ。ゴールへの道だからそれらに抗うことなく受けいれて向き合って日々を生きたい。それら不具合がきたら、「よし来たか」という動じない泰然が欲しい。

(2024年6月17日記 暑い一日、夕立が来そうな空模様涼しさが欲しい)