大学院時代を過ごした西オーストラリア大学

 

大学生活が終わる2015年冬頃、ようやく西オーストラリア大学の大学院に入学が決定しました。(大学時代についてはこちら

 

私は無事2016年3月大学を卒業し、オーストラリアのパースという街に飛び立ちます。

 

留学先のパースという街は、「世界一美しい街」といわれ、自然と調和した街並みが広がる、のんびりとした時間が流れる街でした。1年じゅうほぼ晴れてカラッとした天候で、穏やかで明るい人が多いということでした。

 

「世界一美しい街」と称されるパース

本当に美しかった…

 

大学時代に数か月の海外短期留学は経験済みだったものの、2年間という長い期間、現地の大学で英語を使って議論し、研究するのは初めてのことだったので、渡航前緊張していたのを覚えています。

 

もし修士号の後、博士号にまで進む場合、5年間は海外に住むことになるので、もしかしたらもう日本にはしばらく帰れないかもしれないという覚悟で、家族に見送られながら、飛行機に乗り込みました。

 

こうして私の海外大学院時代はスタートしました。

 

オーストラリアの大学は7月スタートで、3月に日本の大学を卒業してから大学院入学まで半年ほどの空きがあったので、海外生活に慣れるために、オーストラリア人の家庭にホームステイし、現地の語学学校に通いました。

 

ホームステイ先の家族はとても温かく私を迎え入れてくれました。母子家庭で、男兄弟2人の家庭でした。お母様は弁護士で、男兄弟はクリケットというスポーツが好きな、明るくフレンドリーな2人でした。息子2人とは年も近かったので仲良くなり、私はオーストラリアに居場所を見つけることが出来ました。

 

また、その家族と一緒に日曜日は近所の教会へ行きました。キリスト教は幼稚園の頃少し教わっただけで、よくわかりませんでしたが、教会の皆さんは日本から来た孤独な日本人を、温かく輪の中に入れてくれました。

 

語学学校でも、クラスメイトはほぼアジア系留学生同士だったこともあり、話しやすく、すぐに仲良くなりました。割合でいうと、95%中国人、1%ブラジル、1%コロンビア人、1%レバノン人、1%トルコ人、1%日本人でした。中国人パワーすごかったです(笑)。中国人以外の留学生とも仲良くなり、私にしては友達が沢山出来ました(笑)。

 

英語を使っているときは不思議と自分の思ったことを素直にいえたり、普段絶対話しかけないであろう人にも話しかけたりすることが出来ました。日本語だと自分の想いを伝えるのを躊躇してしまうことが多いのですが、なぜなのでしょうか…?日本語を話しているときも英語を話しているときみたいに素直に話せたらいいのに…(笑)

 

語学学校のクラスメイトとの集合写真

今でも大切な友達で連絡を取りあっています

 

私は語学学校のクラスメイトと海沿いにあるハンバーガー&カフェのお店に行き、初めてファストフードではない本格的なハンバーガーを食べました。値段は高かったですが、一つ一つの素材が美味しくて感動しました。

 

スタッフも生き生き楽しそうに働いていて、お店の雰囲気もとても開放的で明るく、「自分はオーストラリアに来たんだ!」と感じた瞬間でもありました。

 

私はその時アルバイト先を探していました。オーストラリアの物価は高く、親からの仕送りだけでは生活が苦しかったからです。こんな雰囲気のいい場所で働けたらなぁと思って帰路でお店のインスタグラムを見ると、そこにはスタッフ募集の文字がありました。

 

私は「皿洗いだけでも一生懸命に働きます!」とメッセージを添えて、ダメもとで申し込んでみました。私はタイミングが良かったのかもしれません。奇跡的にOKをもらい、そこで働けることになりました。

 

皿洗いと掃除、締め作業、あとたまに仕込みの手伝いという雑用係でしたが、私にとっては海外での初仕事ですし、収入源もでき、そして現地の人と一緒に働ける貴重な機会でもあったので、とても嬉しかったです。飲食店経験はありませんでしたが、スタッフの皆さんは私にやさしくフレンドリーに接してくれ、教えてくれました。

 

アルバイト先のカフェ&ハンバーガー店

思い出の場所です

 

そんな穏やかなオーストラリアでの半年間は終わり、いよいよ本格的に本キャンパスにて大学院がスタートします。

 

海外での授業や研究は、留学生の私にとってとてもハードでした。

 

まず第一に、言葉の壁がありました。クラスメイトは皆ほぼネイティブスピーカーで、英語に苦戦しているのは私くらいでした。留学のために必死に英語を勉強してきたものの、実際の議論で交わされる英語のスピード感には全くついていけず、理解するのに精いっぱいでした。発言はほぼ出来ませんでした。

 

さらに研究に関しても壁がありました。大学院の専攻は学部時代と全く同じ分野ではなかったので、新たな分野を必死で学ぶ必要がありました。もちろん英語で学びました。

 

専門用語が飛び交う新しい分野を学びながら、授業では交わされる議論を必死で理解して(実際には5割くらい理解できていればいい方でした)、なんとか自分の考えをアウトプットして議論にギリギリ参加する(海外の大学では発言しなければいないものとみなされるようです)。

 

こんな毎日を繰り返しました。英語を読むスピードがネイティブスピーカーと比べ圧倒的に遅い私は、課題図書を読むために毎日深夜の閉館ギリギリまで図書館にこもりました。

 

課題は日を追うごとに多くなり、また生活のためにアルバイトもしていたこともあり、寝る時間がだんだんなくなってきました。プレッシャーと焦りで食事も満足にできなくなり、今考えると私は少し鬱になっていたと思います。

 

唯一の安らぎは、アルバイト先での時間でした。いきいきと楽しそうに働くスタッフと一緒に働き、仕事に没頭しているときは、少しだけ大学院のことを忘れることが出来ました。日に日にストレスが顔に出ていった私を気遣って、スタッフの皆さんは私の課題を手伝ってくれました。あれがなければ私はストレスに耐えることも、卒業することも出来なかったろうと思います。

 

フラフラになりながらも1年が過ぎ、ギリギリ課題点を超えることが出来、2年生に進級することが出来ました。

 

西オーストラリア大学キャンパス

息をのむほど美しいキャンパスでした

でもそれを噛みしめる心の余裕はありませんでした…泣

 

ただ1年生の時の成績があまりにもギリギリだったので、2年生では同じようにしていては卒業できないとわかっていました。私のほかにもあと2人中国人の留学生がクラスにいたのですが、2人とも2年生には進級できなかったとのことでした。

 

なので、私は作戦を変えました。自分の英語力が爆発的に伸びることはないと悟り、自分がチンプンカンプンなことを、開示するようにしました。それまで「せっかく海外の大学院まで来たのだから、一人の力で困難も突破しなければ!」と思っていたのですが、私は周りに助けを求めることにしたのです。

  • 授業中、理解できていなくてもどんどん発言してみる。
  • 分からないことを、「分かりません」と伝える。
  • いままで課題図書を読む時間で参加できていなかったクラスメイトの飲み会に参加する。
  • 課題図書は読めなくなるが、飲み会で課題図書の要点をクラスメイトに教えてもらう。

 

今考えるととてもシンプルですが、当時の自分には勇気がいることでした。でも、クラスメイトは思っていたよりも私を心配してくれていたようで、親切に助けてくれました。頼れる仲間が出来たことからか、精神的にも安定し、すごく苦しんだ1年目が噓のようでした。一人で出来ることは限られているということを学んだ瞬間でもありました。

 

黙々と1人で闘っていた1年目でしたが、2年目はクラスメイトの力も借りて、順調な成績をとり、無事大学院の論文も仕上げ、2018年1月に卒業を迎えることが出来ました。

 

かっこよく、「私は海外大学院を卒業しました!」と胸を張りたいところですが、とてもそんなことは言えません。私が無事卒業できたのは、心優しい同級生に恵まれたからに過ぎません。

 

クラスメイトと郊外のワイナリーへ

もちろんこの時も、周りが何を話しているかはほぼ分かってません(笑)

 

卒業後そのまま博士課程まで進む道もありましたが、いったん社会経験を積んでからでも遅くないと思い、日本の一般企業に就職することにしました。

 

ここまでは、大学院で生き残ることに精一杯で、ハンバーガー屋を開きたいなどとは、微塵も思いませんでした。オーストラリアで2年間ハンバーガー店で働きましたが、仲間と楽しく働ける時間、美味しいハンバーガーが賄いで食べれる嬉しい時間という程度の位置づけでした。

 

ただ、大学院卒業から就職までの2か月間で、事態は急展開を迎えます。