虫の人 | ハザマランド

虫の人

 灰暗くなった空に銀の亀裂が走った直後、街を踏み潰すほどに激しく光が吼えた。膨らむ雲が残った青空を覆い、どこからともなく涼風が吹き抜けていく。

「来る」

 葵は発した。

「来る、来る、来る」

 追い風を背に受けながらコンビニの軒下へ潜り込む。

 数秒後、雨粒が弾けた。次の一粒が十に、十が百、千になる。夕立だ。乾いたアスファルトに雫が滲みて、鈍い匂いが辺りに広がる。

 汗で湿ったセーラー服の胸元をつまみ、冷えた空気を取り込みながら、葵は白く染まった街を眺めた。この雨脚なら止むまで三十分はかかるだろう。軒下のさらに奥へと体を引いて、スカートの裾が濡れないよう膝の裏に挟んでしゃがみ込む。下ろしてあった鞄から一冊の短編集を取り出した。

 立ち上がり、まずは一編。一際短い話を読み終えて、ふと顔を上げると、隣に男が立っていた。空模様と同じ灰色のスーツを着た細身の男。若くはないが老けすぎてもいない。何気なく眺めていると、男が視線に気がついた。わずかに目を見開く。

「こんにちは」

 葵があいさつすると、男は同じ言葉を返し、その後小さく珍しいとつぶやいた。続けて何を読んでいるのですかと尋ねて来たので、吉行淳之介ですと答えると、即座に『蝿』ですねと返してきた。読み終えたばかりの一編だ。半開きになった口のまま頷く葵に男は微笑み、細くなり始めた雨脚と同じ調子で続けた。

「どう思いました。その話」

「へっ? はい、あの、気持ち悪かったです」

 返ってきた答に男は乾いた笑い声を立てながら切れ長の目をしならせた。

「うん。やっぱりオボコだ。だから私が見える」

 オボコ。何だろう。初めて聞いた言葉だが、読んだことはある気がする。

 記憶をたどる葵を尻目に、男は曇り空を見上げると、両手を背中へ回した。

「その話に出てくる少年は、私の甥っ子なんですよ」

 そう言って、ほらと背中を向ける。そこには七色に輝く玉虫が無数にびっしり張り付いていた。

 短い悲鳴が出る。眉が寄った。

「恐がらないで。悪いものじゃありませんから」

 言いながら男は回した右手と左手で、蠢く玉虫を一匹ずつ器用につまんで剥がした。

「よし行け。天地を繋げ」

 前に戻した両手を男が開くと、勢いよく二匹の玉虫が飛び出して、右から左、左から右へと二重の半円を描いた。それを追うかのように、雨のあがった東の空に濃い虹と薄い虹が架かっていく。上のがオス……いやメスだろうか。葵は虹を眺めながらその一文字の意味を無性に知りたくなった。

 振り返り、日の差す東の空を仰ぎ見る。

男はいなくなっていた。


了

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